北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

1 村の概況

石戸宿村
石戸領ニーか村の本村で、古くは石戸郷と唱え、『吾妻鏡』に見える石戸左衛門尉の在所であるという。地名の由来は、石津の意という(『埼玉県地名誌』)。『新記』には「渡津あり」と記され、『郡村誌』にも「渡船二艘馬渡」とあり、渡船で荒川をこえて小見野村(川島町)に通ずる松山道にあったことが知られる。旗本牧野氏の知行地で、検地は寛文八年(一六六八)、持添新田があり寛政六年(一七九四)検地し幕府領となる。村高は『武蔵田園簿』で一六二石余、皆畑である。『元禄郷帳』では一七六石余で、以後はほとんど変わらなかった。荒井・高尾・石戸宿村との秣場や荒川の河川敷の開発をめぐって論争が絶えなかった。高札場(こうさつば)は村の中央にあった。また、毎年三月二日・五月二日・七月十一日・十二月二十七日の四回市が立ちにぎわった。鎮守は天神社で、他に稲荷社もあった。寺院は天台宗青龍山放光寺(川田谷村泉福寺末)、小名堀之内の阿弥陀堂は石戸氏の館跡とも伝えられ、字城山には室町期に太田道灌が築城したと伝えられる石戸城跡がある(県重要遺跡)。東光寺境内の蒲桜は諸書に見え、貞永二年(ー二三三)在銘の板碑は名高い。化政期の家数はー〇五軒であった。主な物産に、鶏卵・米・陸稲・大麦・小麦・大豆・小豆・藍葉・甘藤・芋・茄子・酒などがあった。

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