北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

2 年貢の割付から皆済まで

年貢配分をめぐる争い
さて、年貢割付状によって村に賦課(村請制)された年貢は、農民の所持高に応じて比例配分し、各自の負担額が決められた。その場合、耕地順に記載されている検地帳では計算するのに不便であり、農民各自の保有高が一目でわかるような基礎資料をあらかじめ作っておく必要があった。そのような必要から生まれたのが「名寄帳」であり、名主はこれをもとに年貢の割付けを行ったのである。したがって、名寄帳の文書機能を保つためには、現実の土地移動に即応して内容を逐次改訂していくか、新帳を作成する必要があった。市域に残る名寄帳も、土地移動の激しさを反映し、加筆がたいへん多くなっている。
ところで、この割付状の末尾には、名主・組頭・惣百姓・入作百姓まで立会い、不公平のないように各自の負担額を定めるように記してあるのが通例であるが、実際には村役人だけで処理してしまい、一般の農民は村全体の負担がどれだけあるのかも知らず、自分に対する割当てだけを知らされる場合も多かったようである。したがって、この割付けをめぐっての出入り紛争も多い。例えば、元禄三年(一六九〇)荒井村では、新田組頭杢左衛門が他の九名とともに名主の年貢割付を不当として訴訟をおこしている(第一章第四節第五項参照)。つまり荒井村の文書に、「荒井新田巳の御年貢割付の義は、御代官様より惣百姓拝見仕り立会い勘定仕り候様仰せ付け為され、即ち其の通り証文御取り遊・はせられ候所に名主我儘にて百姓には割付見せ申さず、証文の義も四月二七日に、今日中に差上げ申し候御急ぎの由申すに付き、名主所へ参り見申し候へば、去る霜月の月日に御座候、御案文の通り、御割付拝見仕り其上判形仕るべき由申し候へども御割付見せ申さず候」というものであった。このときは仲裁が入り内済となっているが、それで問題が解決したわけではなく、その後も尾を引き天保五年(ー八三四)にも再燃している。
事の次第を見ると、荒井村の小前百姓九三人と組頭八人の総代としての組頭甚四郎と勇八は、名主の年貢取立に対する不法を領主に訴え出た。その訴状中に名主方へ(談判した所)「高書抜き相渡し難く其他の儀は勝手次第致すべく抔(など)以ての外不当の挨拶、兎角役威(とかくやくい)を以て申し掠(かす)め自分一己の取り計らいのみいたし」とあって、日頃の名主の役職を傘にきた仕打ちに対し分家の勘之丞、幸五郎の二人を除き、小前・組頭をはじめ親類の者たちまですべてが連印に加わりその非を訴えている。そのため名主は直接江戸まで出向き、牧野氏の用人とその対応策を協議している。そして返答書を認(したた)めているが、その中で①銘々の持高を検地帳から拾い出す作業は手間のかかる仕事で、多忙のため急にはできないというだけのことで、私の方で拒むなどという考えは毛頭ない、②年貢は日を指定してもなかなか一度には集まらないので、そのつど組頭に立ち会ってもらうのは却って迷惑だろうと思った、等々自分に悪意のないことを述べている。しかし、その他の件については、勝手に屋敷周辺の道路の付け替えを行い、そのことを表沙汰にしたくないとの弱みもあり、今回は何とか裁判に持ち込まず内済となるよう強く望んでいた。そこで、石戸宿村名主善兵衛、上川田谷村元名主周蔵の二人が扱人となり「田畑小拾帳の儀、帰村早々役宅に於て組頭立会い取り調べ、銘々所持の分書抜き相渡し申すべく候」と農民側の要求を受け入れた形で、四月に内済となっている。

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