北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

2 年貢の割付から皆済まで

年貢の納入と輸送        
さて、名主のもとに集められた年貢は、米拵(こしら)えから俵装斤量に至るまで厳しいチェックを受け、その後村役人が宰領として付添い、高尾河岸や荒井河岸、太郎右衛門河岸(桶川市)などから船で江戸に運ばれた。その際通常は数回に分けて納めるが、そのつど領主・代官所の役人から小手形と称する受領書をうけとった。また、この年貢輸送に係る船賃は、小穀斗物・御かざり道具は百姓負担、郷真木は領主が三分のー負担、竹木は領主が半分負担、諸買物はすべて領主負担で、上乗銭(うわのりせん)については村方負担ときまっていた(矢部洋蔵家一〇五九)。こうして、年貢納入が終わると、村から納入の明細を書いた年貢勘定目録(近世Na九九、ー〇〇)を提出し、次いで領主・代官は年貢皆済目録(正式の受領書)を村に発給し、引き換えに前の小手形を回収しその年度の年貢納入に関するすべての手続きが完了するのである。次に掲げる資料は、天明四辰年(一七八四)五月地頭牧野氏から発給された荒井村の年貢皆済目録である。浅間山大噴火の際のものであるが荒井村の部分のみ書き抜き掲戰する。

卯田方
 ー 米百拾七俵弐斗弐升八タ八才     荒井村
    但  本米三斗五升入
       外下田拾五歩平蔵分荒地
   内 八拾俵壱斗五升壱合五タ七オ   引途
 残 三拾七俵六升九合三タ壱才 
卯畑方
 ー 金八拾壱両壱分京七百四拾弐文六分
   内 壱分京七百四拾弐文六分     是は前々山発の内下々畑五反四畝廿七歩荒地
                     元の山に願い奉り安永六酉より減る
   内 京着貫三百七拾文        本村水入畑引
   内 京弐貫弐百三拾八文       北袋水入畑引       
   内 金弐拾七両弐分京八百六拾八文  砂降引途
   残 五拾弐両壱分弐朱京拾六文
寅山方
 ー 金五両京四百三文
   内 京五百九文           上り山分除く
寅夫金
 ー 金壱両永六百三文壱分六厘
寅薪代
 ー 鐚五貫百文
   内 百三拾四文           上り山分除く
 右は去る卯年御物成金度々に上納、慥(たしか)に請取此度小手形引上げ皆済の所仍て件の如し
   天明四辰年五月 


崎山弥五右衛門㊞
矢部平兵衛殿     
(矢部洋蔵家八〇三)


この資料は、比較的簡略化されたものであるが、年貢の実際の納入結果を知ることができる。水田についてみると、噴火による降灰とその後襲った大洪水のため壊滅状態となり、年貢高ー一七俵(三斗五升入)余のところ八〇俵余(六八・四パーセント)が免除され、三七俵余(三一・六パーセント)を納入したことがわかる。また、最後の日付によって年貢が皆済されたのが天明四年五月だったことがわかる。これも年貢割付によれば、通常「霜月(十一月)二十日限り」とか「極月(十二月)二十日限り」に皆済せよとあるのに、実際の納期はかなり遅れていることがわかる。この皆済目録は、牧野氏用人崎山弥五右衛門から荒井村名主(矢部平兵衛)宛に発給されたものであるが、この場合、逆に村の名主が年間渡された手形をまとめて皆済目録を作り地頭役所の承諾をうけるものもあった。たとえば、享保十二年(一七二七)荒井村の「午年畑方御年貢皆済目録」(矢部洋蔵家六七七)は名主平兵衛が作成・提出したものに、牧野氏の用人崎山六郎治が裏書・裏判したものであり、文久二年(一八六二)の「酉年田畑山流作場御年貢皆済目録」(矢部洋蔵家四三〇)は、同様に牧野氏の用人三宅勇之進・橋本省兵衛の両名が後書・捺印したものである。その他、年貢割付状に領主が裏書・裏判することで済ませる場合などもあった。しかし、旗本領の多い市域の村々においては、前述の通り年貢割付状や年貢皆済目録の残存状況はよくない。このことは単に散逸してしまったためとも考えられるが、むしろ旅本領では悪化した財政を「勝手方賄(まかな)い」と称する村役人や有力農民に委任したり、年貢先納等により割付状の発給そのものがなされなくなったのではないだろうか。

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