北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

5 国役と夫役

夫役     
一方、夫役とは労働課役のことであり、天領の場合は伝馬宿入用・六尺給米・蔵前入用のいわゆる高掛三役が、多くの場合金納になっていた。私領においては、いろいろな夫役が夫米・夫金等の名において金納になっており、市域においても年貢皆済目録などから、そのことを窺(うかが)い知ることができる。しかし、夫金を納めたからといって夫役が一切課せられないかというとそうではない。助郷役をはじめ道橋や河川・用悪水路等の普請人足・鷹狩・鹿狩等の勢子人足、異国船渡来や冠婚葬祭等にともなう地頭所夫人足など、様々な実際の夫役も負担しなければならなかったのである。
恐れ乍ら書付を以て願い上げ奉り候
ー御知行所武州足立郡下石戸下村名主・組頭・百姓代一同申し上げ奉り候、此の度小金原御鹿狩り勢子人足三拾弐人当村へ仰せ付けられ候旨、三沢口太忠様、竹垣三右衛門様より御触書頂戴畏り奉り候、然ル処当村元高三百九拾七石ニて、右の内拾弐ケ年已前天明四年中同郡元宿村へ百石村分ケ仰せ付け置かれ候に付き、百石分人足八人相勤め候様同村名主弥右衛門方へ申し遣わし候処、組頭共と相談の上挨拶致すべく旨にて等閑にいたし候間、その後猶又度々懸合いに及び候得は、前段申し上げ候通り百石は村分ケにて諸役筋直に勤め仕来り、右人足の義は此度村方へ御触御座無く相勤め兼候趣、併せて対談の上人足四人差出し候様致すべく旨心得違いの挨拶仕り甚だ以て難儀至極に存じ奉り候間、何卒御慈悲を以て右の段御聞訳なされ元宿村にて百石分人足八人相勤め候様仰せ付けられ下し置かれ候ハゝ、有難き仕合せに存じ奉り候、以上
 寛政七卯年二月     御知行所
              武州足立郡下石戸下村
                名主・組頭・百姓代惣代
                   名主 卯之介 ㊞
   御地頭所様
     御役人中様

(『市史近世』No.三〇)


図10 鹿狩勢子参加村々の幟・堤灯

(岡野正家 72より引用)

この資料は、小金原(おがねのはら)(千葉県流山・柏・鎌ヶ谷・船橋・習志野の五市にまたがる広大な原野)で行われる鹿狩りの勢子人足についての減数嘆願書である。下石戸下村は天明三年(一七八三)高一〇〇石を本宿村に分郷したが、にもかかわらず前と同数の勢子人足の徴発を求められた。そこで一〇〇石分については本宿村で勤めるよう申し入れたが理解が得られないので何とかしてほしいと地頭所へ訴えたものである。これは分郷の事実が馬喰町の鹿狩御用調所まで知られていなかった事務上の手違いによるものと思われ、その後の資料を見ると、この訴えは認められたことがわかる。それはさておき、このように高一〇〇石につき八人の割合で計算すると、市域全体では二七五人程になる。そして、宰領(さいりょう)および幟(のぼり)、提灯、弁当持人足は高割人足の他に出さなければならず、それらを含めると総勢三五〇人にもなった。そして、村ごとに図10のような幟を押し立て、小金原をめざしたのである。しかも、鹿狩りは一日でも、往復や待機の日数等も含めると一週間にもなり、いかに農閑期とはいえ農民たちにとっては重い負担であった。因(ちなみ)に、嘉永二年(ー八四九)「御鹿狩諸入用割合取立帳」(吉田眞士家三ー三)によると、この年三月の鹿狩りでは下石戸下村は勢子人足二〇人をだしているが、それに要した費用は一六両一朱とーー貫ーー文となり、これを高割りで負担している。そこで、正人足ではなく一部は代金納で済ませた場合もあった。嘉永元年(ー八四八)の「小金御鹿狩触書」(岡野正家七二)を見ると「寛政度高百石に付人足何人相懸り候、内何人は正人足何人は賃銀納に相成候哉、右人足は勢子相勤め候哉、御獲もの縊方又は御配方働きいたし候哉、其外何役相勤め候哉、右等の訳ケ相分り候村方有り候はゝ其段申し立てべく候、右の通り相心得十月十五日迄に馬喰町御用屋舗御鹿狩御用調所へ申し立てべく候」とあり、そのことを裏付けている。
また、異国船渡来に伴う御用金や人足の徴発も大きな負担であった。嘉永六年(一八五三)のペリー艦隊が浦賀に来航したときの御用金、文久三年(一八六三)、イギリス艦隊が進入してきたときの詳細についてはそれぞれ本編第四章第一節を参照されたい。

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