北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

8 人馬賃銭と人馬役

人馬賃銭      
一般に旅行する者が宿駅の人足や馬を使用する場合は、その代償としての料金を支払わなければならず、その金銭を駄賃または駄賃銭と呼んでいる。幕府が公用などで人馬を使用する場合は、無賃または低額な御定賃銭(公定賃銭)を支払うだけでよかった。それ以外の人々はそれ相当の支払をしなければならず、その料金を相対賃銭といって、問屋を通じて人馬を雇った。相対賃銭は御定賃銭の二倍が相場であった。これらを図示すると次のようになる。


無賃で人足や馬を使用できるのは、将軍が発行する御朱印人馬、老中や京都所司代などが発行する御証文人馬、道中奉行などが発行した触書を宿送りで伝えるものがある(『近世交通史料集十』道中方覚書)。これらの人馬が認められると、それを日本橋の伝馬町へ提出し、伝馬町ではそれから先の通過予定の宿々へ前もって知らせておくのである。
家康は慶長六年(一六〇一)に馬士が馬を曳(ひ)いた図の上に「伝馬朱印」と刻まれた朱印を押して、「この朱印なくして伝馬を出すべからざるものなり」という文言を記して、東海道の各宿に渡している。これが御朱印人馬のはじまりである。その後これは「伝馬相違なく出すべきものなり」と記した九文字の朱印を使用することになり、やがてこの朱印を半分に割って右半分を家康、左半分を秀忠が用いるようになった。三代将軍家光は右半分、四代は左半分というように以後は交互にそれを使った。御朱印人馬が認められるのは公家衆・御門跡方・御鷹御用など二〇余項目がある。
御朱印人馬の次に重要なものが御証文人馬であり、老中をはじめとして京都所司代大坂町奉行・大坂定番・駿府町奉行・遠国奉行・道中奉行などが発行できるとされている。
御定賃銭とは幕府が公用のために定めたいわゆる公定賃銭であり、宿駅の中央あたりに立てられた高札に明示されている駄賃銭である。高札には前の宿と後の宿への駄賃額が明示されている。御定賃銭で人足や馬を使用できるのは、公用で通行する者に限られる特権であったので、幕府の許可が必要であった。これが認められるものは京都御名代の大名、所司代、御三家への上使、代官の往来など一四種にのぼっている。大名といえども御定賃銭か相対賃銭を払わなけれ.はならず、しかも御定賃銭で使用できる数には制限があった。中山道を通行する大名が御定賃銭で使用できる人足と馬は次のとおりである。
五万石以上二五人・二五疋を二日間
ー〇万石以上  〃     を三日間
二〇万石以上  〃     を五日間
例外として金沢藩主は通行当日一〇〇人・ー〇〇疋、前後一〇日間二五人・二五疋の使用を認められていた。無賃や御定賃銭は特権通行であったから、それらの負担は農民にとって重いものとなった。

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