北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第5節 村のしくみと農民生活

1 村役人

組頭       
つぎに、組頭についてみると、組頭は名主の補佐役で、庄屋の呼称と同様に幕府直轄領以外では、年寄とも呼んだ。最初は、五人組の長である組頭が、名主を補佐したので、名主の補佐役を組頭と呼ぶようになったと言われる。与頭(くみがしら)と書くこともある。この組頭は村内の百姓のなかでも相応の高持ちで、事務能力にも優れ、村の慣習などにも精通している者が適任者であった。通常一村には二~五人くらい置かれたが、享保六年(一七ニー)の「下石戸村朝鮮通信使来朝国役金取立帳」には善兵衛ほか八人の組頭が名を連ねている例もある(近世No.二九)。安政六年(ー八五九)、荒井村では組頭の甚之丞が病死してしまったので、同人の婿養子である平左衛門が跡役を引き受けて貰うよう村民一同で相談し、役人総代組頭文右衛門の名前で地頭に願い出ている。これは即刻聞き届けられたようで、新任の組頭平左衛門はさっそく「然ル上は、万端役元の差図を受け、御用村用共、大切に相心得、入念に相勤め候」との請書を地頭役所に差し出している(矢部洋蔵家三一〇)。
また、元治元年(一八六四)、荒井新田の組頭の庄兵衛が、やはり病死してしまったので、百姓勇吉をその跡役にお願いしたいとの願書を領主に提出している。その願書の中で村民は、「同人の勤務中、御年貢その他引負等出来候共惣小前(全村民)で引き受け、聊も御差し支え無く弁納仕まつる」と断り書きをして、組頭にも領主にも迷惑を掛けないことを保証している(矢部洋蔵家四六四)。

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