北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第5節 村のしくみと農民生活

2 農民生活と規制

私たちは、日々の生活の中で、自由にものを考え、表現し、信仰し、自分の好む場所に住み、そして学び、あたかも空気のごとく自由を享受している。これらの自由は、申すまでもなく日本国憲法によって、しっかりと保障されているものである。
ところで、江戸時代の農民の生活はどのくらい自由であったのだろうか。そこで、ここでは逆に農民に対する規制がどうであったかを考えてみることにする。幕府の財政的基盤は、農民による農業生産にあったので、為政者である幕府にとって生産性を少しでも高めるために農民の日々の生活を管理監督することは重要な事がらであった。そこで、幕府は農民に対して武士に次ぐ身分を与える一方で、租税負担者としての農民に対する規制ほ厳しいものであった。
その一つとして農民と土地に関する規制が挙げられる。市域には元和六年(一六二〇)に下石戸村と荒井村で実施された検地帳が残されている。この検地帳には各村内の土地について一筆ごとに地名、地種、等級、面積、生産高(石盛)、所有者がそれぞれ明記されている。検地の詳細については本編第一章第四節に議るが、検地によって一地ー作人、すなわちそれぞれの田畑の所有者が確定し、年貢負担責任者が定められた。ここで田畑の所有者が確定することは極めて重要な事であった。農民は、その生産手段である田畑、すなわち土地と不可分の存在であり、農民を土地に縛り付けておく必要があった。その意味から検地の果した役割は大きかった。
徳川家康も、関東入国直後から秀吉の太閤検地の一環として領地の検地に着手している。その後幕府は検地に関する統一的な制度の確立に努め、慶安二年(一六四九)に「検地掟二十六ヶ条」、元禄三年(一六九〇)に「検地条目」、享保十一年(一七二六)に「新検地条目」などを制定し、全国津々浦々までも検地を実施していった。
なお幕府は農村における階層の分化とそこから生ずる社会秩序の乱れ、ひいては幕府の財政的基盤の崩壊を恐れ、いったん検地を実施すると、農民が年貢の負担などに耐え兼ねてその田畑をやむなく手放そうとしても、それを堅く禁止した。
それを制度として定めたのが、寛永二十年(一六四三)に発せられた「土地永代売買禁止令」である。この禁止令によって、農民は、質地という抜道はあったが、自分が所有する田畑であっても自由に売り払うことは禁止されていた。こうした幕府の政策も貨幣経済の発展とともにしだいに変質を遂げて行くことになるが、いずれにしても土地に関してはこのような規制が働いていた。

写真13 農業作業図

(加須市提供 由木義紹家蔵)

つぎに農民の生活に関する規制を直接的に物語る資料の代表的なものとして、「慶安御触書」がある。これは、慶安二年(一六四九)二月二十六日に、幕府が発した触書「諸国郷村江被仰出」であり、農民一人ひとりに向かつて懇切丁寧に説き聞かせる形式を採っている。
市域に残されている古文書の中には、このものは見いだせないので、江戸幕府の法規集である「徳川禁令考」に収戰されているもので、その内容について簡単に触れてみる。条文は三二か条から成り、その第一条は「一公儀御法度を恐れ地頭代官の事をおろそかに存ぜず、扨(さて)又名主組頭をバ真の親とおもうべき事」で始まり、まず最初に幕府の威光を恐れ、法律を遵守し、領主・役人の命令に従い、名主や組頭も自分の親と同様に思い、言い付けをよく聞くように悟している。そして、二条以下には、まず、名主・組頭の心得として、領主・役人の命令に従い、率先して責任を果し、村人に対して依怙贔屓(えこひいき)をせず身を謹しむよう説いている。
農民に対しては、耕作に精を出し、雜草をよくとり、農具の手入れを念入りにし、肥料を作る方法を教えるなど農業技術を指導して生産の増大に努めさせている。そして年貢完納を何よりの事として奨励している。また、日々の生活についてもいろいろと細かく規定している。例えば、早起きをして朝草を刈り、昼は田畑を耕作し、晩には縄をない、俵を編んで一日を少しの無駄も無く働き、酒茶を飲まず、木綿以外は身に着けず、たばこも吸わず、果ては美しい女房でも夫をないがしろにし、お茶のみが好きで、社寺参詣や遊山にうつつを抜かしている女房は離縁したほうがよいとまで説いている。
そして最後には、「年貢さへすまし候得バ、百姓程心易きものハこれ無く、(以下略)」と、農民はあくまでも年貢を納めさえすれば、これほど楽なものはないとしている。これは、「難儀にならぬほどにして、気ままをさせぬが百姓共への慈悲なり」とする当時の幕府農政の基本的方針とも合致しており、農民の置かれている立場を良く物語っている。
さらに農民の生活を規制したものとして五人組制度がある。五人組制度は近世村落行政の末端組織として村落内で五戸前後を単位として組み合わせたもので、寛永十年代に全国的に組織された。寛永十四年(一六三七)に幕府が発した法令「悪党御制禁の覚」(九か条)のなかで、五人組制度を積極的に組織させようとしている。とくに第一条に「この已前より仰付けられ候五人組、いよいよ入念相改むべき事」とあるところをみると、すでにこの時期には五人組制度はかなり行き渡っていたと考えられる。法令の題目からも窺えるとおり、幕府はこの時期の五人組に対しては、多分に治安維持のための連帯責任組織として期待していたようだ。
そして、村落内の五人組の構成員を組単位で書き上げたものが五人組帳であるが、その前半部分に領主が領内の農民に守らせるべき禁止条項を列挙した前書き「五人組帳前書」が付いている。そして、この五人組帳は、毎年構成員の記名捺印のうえ領主に提出するが、その際前書きにある禁止条項を遵守する旨を記しており、一種の誓約書となっている。
この「前書」の禁止条項をみると、農民が領主から多くの制約を受けていることが理解される。ここで、埼玉県内で初出の五人組帳である同十八年埼玉郡八条領四条村の五人組帳をみると、三八条からなり、最も多い条項が年貢上納についてであり、ついで、悪党の召し捕りやキリシタンの吟味などの治安維持に関する条項が多く、そのほか農民の生活全般にわたる条項や勧農条項となっている。そして、最後にこれらの条項を遵守すると共に、「前書」を写して置いて毎月一度村中の農民を名主の家に集め読み聞かせることを誓っている。
このように江戸時代の農民は、幾重にも張り巡らされた規制の網の中で生活することを強いられた。幕府政治の確立期は特に厳しかったと言える。

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