北本市史 通史編 近世
第2章 村落と農民
第5節 村のしくみと農民生活
4 村入用
江戸時代における村は、幕府行政の末端機関として機能しており、そこには当然のこととして村の財政が存在する。一般的に「村入用」と呼ばれて、基本的に村の構成員である農民等が拠出する負担金によって賄(まかな)われるところは、現在の地方自治体のそれと何等変わるところはないといえよう。江戸時代においては、現在のように、あらかじめ年間の予算を立てて、その範囲内で支出していくというやり方ではなく、村では一年間に支出するお金を名主等が立て替えて置き、年の終わりに集計し、その金額を村の構成員である村人に割り当てる方式が行われていた。
ここで支出の主な項目を挙げてみると、村役人の給料、出張費、会合費、筆墨紙代をはじめ、各種の組合村や入会村々の村としての負担金、用水・道・橋の普請にかかる経費、臨時の訴訟費用負担金などがあげられる。さらに広義に解して年貢納入費用、領主へ差し出す賦課金や夫役なども含ませる場合もあった。
一方、経費の割り当てと徴収であるが、これについては、徴収者である名主と納入者である村人との間で、公平な執行をめぐる訴訟が絶えなかった。幕府においても十七世紀の後半以降しだいに制度を整備し、「村入用帳」を二冊作成することを義務づけ、一冊を領主に差し出し、一冊を村に置くこととした。そして、村人への割り当て方についても、基本的にはそれぞれの持ち高(田畑の所有高)を基準とするが、軒別(戸数割)や人別割を併用したり、そのほか地域によって様々な要素を加味して公平を期すよう配慮した。
現在確認される市域の史料の中では、村入用帳は見いだせないので、個々の事例を見ながら、村入用の実態を見て行きたい。
慶応二年(一八六六)十二月、本宿村の彦四郎、和吉、兵五郎の三人が村の用務で出府、すなわち江戸へ用事を足しに出掛けたときの費用のメモ帳「出府入用控」(近世No.五二)がある。これによると十二月十四日に出掛けて二十日ころに帰郷したらしい。その目的ははっきりしないが、下級の役人に手土産などを持参しているところ、評定所に出向いているところなどをみると、村の用務、特に村の訴訟関係ではないかと思われる。
そこで、もうすこし細かくみると、浦和・板橋などの宿場で休んだり、昼食を食べた費用、茶代、手代への心づけ、それに、帰郷してからの出費になるが、扱い人や立ち会い人への礼金も含めて、九両一朱と一四貫八八八文。さらに、地頭所の役人や評定所の関係者への挨拶に渡した半紙一四〇帖の代金五両二分、次に文右衛門なる人物を接待した費用として酒肴代一貫文等が記載されている。これらをすべて合わせると、一四両二分一朱と一五貫八八八文となる。
また、安永三年(一七七四)三月の「大橋掛(ママ)替木口諸色入用人馬賃銭割合帳」(近世No.一五三)がある。これは、現在
鴻巣から騎西へ向かう道路で、笠原で元荒川をわたるところに架かっている大橋のことと思われる。この橋を架け替
えるに当たって、材木代一〇両をはじめ土付馬のほか完成するまでの人足や職人請負賃が九両二分で、諸経費を合計
して一九両二分と銭一七貫四六四文であった。この時の人足賃一人ーニ四文、馬一匹二四八文となっており、馬が人
の二倍となっている。また、負担割合は永換算で村高に掛けて割り出し、関係村々八か村の村高合計一八六八石七斗
にたいし高一〇〇石について永一貫一八三文五分とした。関係村々の負担をみると次の通りであった。
割り当て永 | 金として | 内金 | 人馬勤賃引 | 差引残り | |
下生出塚村 | 一貫三一八文五分 | 金一両二分と銭四五〇文 | 金一分ニ朱 | 八七二文 | 金三分と銭四丁六二文 |
上生出塚村 | 三貫三九七文 | 金三両一分二朱と銭一四四文 | 金一両 | 三七二文 | 金二両一分と銭五九二文 |
上谷村 | 三貫七一八文 | 金三両二分二朱と銭六一四文 | 金一両 | 八七二文 | 金二両二分と銭六六二文 |
下上谷村 | 三貫三〇三文四分 | 金三両一分と銭三〇〇丁 | ーー | 一貫七四八文 | ーー |
五〇文 | |||||
中曽根村 | 一貫五八二文八分 | 金一両二分と銭五四五文 | ーー | 二貫八七二文 | ーー |
深井村 | 四貫ーニ七文二分 | 金四両と銭一七七文 | 金二両三分 | 銭七四ハ文 | 金二両二朱と銭二五三文 |
上宮内村 | 二貫四二七文一分 | 金二両一分二朱と銭三四 | 金一両 | 銭ー貫三二 | 金一両二朱と銭六六七文 |
三文 | 四文 | ||||
下宮内村 | 二貫三四二文 | 金二両一分と銭六〇七文 | 金一両 | 銭五〇〇文 | 金一両一分と銭ー〇七文 |
また、天保二年(ー八三ー)の「桶川宿御改革組合村々囚人諸雑用負担割合帳」(近世No.一六)によれば、取締出役の手付や手代が逮捕した犯罪人を村で預かり江戸へ護送したが、その時の費用も村々の負担であった。これは石戸宿村・下石戸下村・下石戸上村・上川田谷村・下川田谷村・同村下分・樋詰村の七か村の小組合分のものと思われる。
いま一例をあげれば、この年の二月二十六日から二十七日にかけて鈴木与市右衛門と保坂貞右衛門の関係の囚人ー人を本宿村の担当で江戸へ護送したものであるが、その費用は本宿村で負担した。内訳をみると囚人の宿料一四八文、同昼食料七二文、番人足・才領の昼食料・宿料賃銭引き替わりとも一人について三七二文ずつで一貫五〇〇文、ろうそく七二文で、合計二貫二〇〇文であった。このような負担を組合村の中でそれぞれ行い、一年の前半一月から六月までを集計し清算している。その際自分の村の負担は差し引かれた。
表33 桶川宿御改革組合村々囚人諸雑用負担割合
村 名 | 負担額 |
---|---|
石戸宿村 | 538文 |
下石戸下村 | 913 |
下石戸上村 | 887 |
上川田谷村 | 1211 |
下川田谷村 | 1473 |
同村下分 | 1134 |
樋詰村 | 318 |
計 | 6474 |
(『市史近世』№16より作成)
表33は組合村のなかの小組合七か村分で高一〇〇石について長銭二九四文の割りで割り付けた結果、合計六貫四七四文になった。市域の三か村の負担が少ない。しかも囚人を預かった石戸宿村・下石戸上村と駕籠を仕立てた下石戸上村などはその費用を負担しているので、差し引き返還されることになったようだ。こうした場合も生じたが、いずれにしてもその時々にこのような負担が村々に課せられたわけである。
しかしながら、これまで見て来た村の運営経費にたいする村民への賦課の資料がないので、市域におけるその実態が見られないのは大変残念である。