北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第5節 村のしくみと農民生活

5 宗門改めと人別

人口の把握と人別帳
ひとつの自治体が行政を進めて行くうえで、自治体内に居住する人口が一体何人いるのか、あるいは男女の比率はどうか、年齢構成はどうなっているかなどを知ることは、極めて基本的なことと言える。現在、市域における人口動態については、市役所で日々の動態を含めて、これを把握しており、市政執行の重要な資料ともなっている。
それでは、江戸時代において人口の把握はどのように行われていたのだろうか。江戸時代の人口調査は、「人別改め」と呼ばれ、全国的には享保十一年(一七二六)に八代将軍徳川吉宗が労働力の把握を目的として行ったのが最初だと言われている。
今、ここに「御改人別帳」(近世No.一五四)と題する一冊の帳簿がある。これは、寛保三年(一七四三)九月、下石戸上村の名主庄蔵が村内の戸口調査の結果を領主あてに差し出したものの控えである。今ここにその一部を紹介してみよう。

田畑壱町四反九畝壱歩年三四才
 組頭
作右衛門㊞
外二山六反弐畝拾六歩
畑五反七畝廿六歩下村分
山五反三畝廿六歩同断
畑弐反歩石戸宿分
母親手前罷有候同七ー才ふ  き
内藤織部様御知行所安養
寺村市兵衛ニ縁付申候
同四五才か  ね
女房牧野助三郎様御知行所北
袋村太左衛門娘ニ御座候
同三ニ才み  よ
女子手前罷有候同一ニ才い  ろ
同断同五才そ  よ
同村平七線付申候同二八才く  ら
下男日下部伊推様御知行所中
丸村善兵衛忰抱置申候
同三五才権  助
右御同領同村仁右衛門忰
抱置申候
同二〇才小 兵 衛
下女下村茂兵衛娘抱置申候同ニー才な  つ
有人八人内男三人
女五人

他ニ弐人女
田畑七反壱畝壱歩年廿五才吉 重 郎㊞
外山三反三畝廿弐歩
女房同村徳左衛門娘ニ御座候同二五才そ   の
母親手前罷有申候同五ー才つ   ま
同村藤七ニ縁付申候同二八才さ   ん
大屋杢之助様御支配所鴻
巣宿文四郎所ニ相勤申候
同ニー才あ   ま
手前罷有候同一六才ゆ  く
伯母下村権右衛門ニ縁付申候同五七才た  き

有人四人 他三人女

内男一人
女三人

写真14 御改人別帳

(吉田眞士家蔵)

この帳簿を見ると、当時の村民の家族構成とその年齢構成、それに下男・下女が何人いて、どこから奉公に来ているかも知ることができる。そして末尾には村内の全人口と男女別の内訳も知ることができる。ちなみに当時の下石戸上村の戸数と人口は、戸数九四軒と寺ーか寺、人口四四五人となっており、その内訳を見ると、男二ニー人、女ニニ一人、ほかに道心三人となっている。なお、今この数字を基にして、この時点での平均的家族構成を見ると、男女とも二・三五人で、併せて四・七人となる(寺堂、道心を除く)。この人別帳には、このほか、この村から転出した者の人数も記載されており、その人数は男五四人、女ー〇〇人計一五四人にのぼる。これを加えて五九九人の村民が名前が記載されている。また、馬の頭数も記載されており、この村には三〇頭の馬がいた。
ところで、この人別帳にはこの村出身者の転出先と嫁・婿や下男・下女としてこの村の人別に入った者の転入元が記載されているので、これを地図に落としたものが図11・12である。まず、これを見ると、この村の婚姻圏を知ることができる。嫁や婿として他村に嫁いでいる様子を見ると、石戸領内を中心に南は上尾、北は八幡田(鴻巣市)、東は栢間(菖蒲町)、そして西はかなり離れた唐子(東松山市)となっている。特別な例として江戸の町人に嫁いでいる者も五人いる。一方他村からこの村に嫁いで来ている先をみると、比較的近隣の村が多いが、なかには川越城下から婿に来ていたり、やはり江戸から嫁入りしている例もある。また、下男・下女の転出先・転入元を見ると、転出先は江戸が断然他よりも多い。男が二〇人、女が九人となっている。これを見てもいかに農村から江戸へ人ロが流出しているか窺うことができる。
こうした人別帳は村の戸籍台帳であり、領主が村民の動向を詳細にわたって把握することができるとともに、課税の貴重な基礎データともなるわけである。

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