北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第5節 村のしくみと農民生活

5 宗門改めと人別

宗門改めと宗門人別改帳 
人別帳は江戸幕府のキリシタン禁止政策に基づいて行われた宗門改めの帳面と一緒になった「宗門人別改帳」(宗門人別帳 宗旨人別帳 宗門改帳とも言う)の形をとることが多い。
江戸幕府のキリシタン禁止政策については、慶長十八年(一六一三)に禁教令が発せられ、寛永十四~十五年(一六三七~三八)の島原の乱を契機として、一段と強化された。幕府は、宗教政策として檀家制度を推し進めるとともに、同十七年、まず幕府直轄領で領民一人一人がキリシタンではなく、確かな仏教徒であるかどうかを調べさせ、それを所属する寺院、すなわち旦那寺に証明させた。これが宗門改めであり、それを家族単位でまとめ、さらに人別帳と合わせたものが「宗門人別改帳」である。幕府は寛文五年(一六六五)、国内諸藩にこの宗門人別改帳の作成を命じており、さらに同十一年には毎年作成するように命じている。幕府直轄領では、毎年三月、村ごとに二冊作成して一冊は代官所に提出し、残りの一冊は村の名主が預かった。ここで市域の状況を史料(矢部洋蔵家一〇八九)に基づいて見てみよう。市域の荒井村では享保十年(一七二五)九月、牧野氏用人崎山六朗治にたいし、およそ次のような内容の証文を差し出している。

図11 下石戸上村村人の異動(転入)

(『市史近世』№154より作成)

図12 下石戸上村村人の異動(転出)

(『市史近世』№154より作成)

切支丹宗門については、毎年仰せ付けなさるとおり村中の詮議を行いましたところ、不審な者は一人もおりませんでした。それを証明する寺請証文は私どもで保管しております。もし不審な者がいると申す者がおりましたならば、私どもはどこまでも出掛けていき申し開きを行います。
なおこの証文には一〇人の組頭と二人の名主(相給名主か)が連署している。そこで、次に天保十一年(一八四〇)四月の「御改宗門人別帳」(近世No.一五五)について内容を紹介してみよう。
下川田谷村天台宗泉福寺菩提㊞
御百姓当子三〇才馬 次 郎㊞
三〇才ひ て
女子一一才り き
男子九 才銀之助
女子三 才け い
 有人 男弐人
    女三人

この史料を見ると、まず旦那寺である隣村下川田谷村(桶川市川田谷)の天台宗泉福寺が記載され、次に一家族の構成員一人一人の年齢と名前が記戰されている。家族のなかには現在家を離れ奉公にいったり、嫁や婿、養子などにいっていると記載されていたり、なかには嫁がどこから来たか記載されている例もある。そして一家の終わりごとに「有人 男何人 女何人」と現在の家族の人数を記載し、その後に「他 男何人 女何人」と現在は家を離れている者の人数を記載している。最後には、総家数が七三軒、現在の家族の構成員である有人男女合わせて三二二人、また現在家を離れている人数が男女合わせて四一人、それに馬の数がニニ頭と記<されている。これを見ると、前に見た「人別帳」と大きな差はない。
しかし、その帳面の最後には旦那寺の泉福寺とその末寺である下石戸上村の真福寺が、それぞれ家数と人数をあげて「右の者往古より拙寺(私の寺)旦那に紛れ御座無く候」と署名捺印している。この部分が寺請証文であり、宗門改めの役割を果しているわけである。
旦那寺については、普通村内の寺院がなると思われるが、もともとこの村は旗本牧野氏が支配する石戸領に属していた村なので、わずかに一軒を除いて全て隣村の泉福寺の檀家になっている。

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