北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第3節 村落規制の強化

1 農民生活の変化

江戸幕府八代将軍徳川吉宗は、享保元年(一七一六)に紀州藩主から将軍職に就任し、延享二年(一七四五)に隠居し、長男家重にその職を継ぐまでの間、幕政の再構築を目指して諸改革を断行した。これは「享保の改革」とよばれているが、その内容は幕府機構の改革、法制の整備、そして農業政策であった。そのうち吉宗が最も心血を注いだのが農業政策であった。農業政策がいかに正常に運営されるかは、農民からの租税を国家財政の基盤とする幕府にとって重要なことがらであった。そのために執った政策は、例えば年貢の増徴を図る定免法の採用であり、町人請負新田をはじめ農業用水の確保などあらゆる方策を立てての新田開発であり、その田畑をより正確に測量するための新田検地条目の制定などであった。

写真20 高札

(桶川市・廿楽鑑明家蔵)

十代将軍徳川家治の側近として活躍した田沼意次の、いわゆる「田沼時代」になると、商業を重視する政策が行われた。株仲間の公認と運上金、冥加金の取り立ては代表的な例である。しかし、天明三年(一七八三)の未曾有(みぞう)の浅間山の噴火と天明七年まで続く大飢饉は、世情の不安を招き、江戸・大坂をはじめ日本各地で一揆や打ち壊しが多発した。こうした中で農村の疲弊は目に余るものがあった。天明六年にーー代将軍となった徳川家斎を補佐したのは、白河藩主から老中と韻なった松平定信であった。松平定信は荒廃した農村の救済と奢侈(しゃし)と退廃的な風潮に流されている江戸の町の立て直しに取り組んだ。このほか朱子学以外の学問を禁止した「寛政異学の禁」もよく知られているところである。また、松平定信のこの政策は、「寛政の改革」と呼ばれているが、余りにも性急であり、かつ貨幣経済の進む社会全般の流れに逆らうものであったため、寛政五年(一七九三)失脚に追い込まれていった。その後自由な風潮の中で文化・文政期(ーハ〇四~ー八二九)から天保期(ー八三〇~一八四三)にかけては江戸を中心に文化の華が咲き乱れた。しかしながら、都市には農村からの流入者が溢れ、反対に農村はさらに荒廃が進み無宿者や博徒(ばくと)が横行した。幕府はこうかんとうとりしまりでやくした農村を守るために関東一円の警察権を行使できる関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)を文化二年(一八〇五)に設置し、さらに文政十年(ー八二七)には治安取り締まりの徹底と農間余業取締りを目的とする改革組合を組織させた。改革組合については後述するとおりである。
これまで見てきたとおり、いかに幕府政治の指導者が変わろうとも、農村は常に幕府財政を支えるバックグラウンドとして、その役割をいかに果たさせるかが幕府にとって最大の課題であった。そのためには、これまで以上に農民の日々の生活を規制していく必要があった

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