北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第4節 身分制度と差別の強化

2 仕事と課役

えた・非人の仕事は、多くの規制のもとに限られた職種に限定されたが、そのなかでもえたは田畑を所有して農業を営む者もいた。もともと劣悪な土地に押込められたため、多くは僅(わず)かばかりの田畑を所有できた程度であったが、なかには農民に金を貸し、質流れとなった田畑を集積し、かなりの土地を所有していた者もいた。田畑を所有している者は、一般の農民とかわりなく年貢や夫役を負担した。しかし、彼らは農民が負担した陣夫役や助郷人馬、宿場の住民が負担する伝馬役などは免除された。
それに代るものとして、浅草の弾左衛門へ差し出す家別役銭・絆綱銭(はんこうせん)・牛馬皮口銭(銀)の三役があった。
これは、えたの専業とされる仕事に対して課せられたものである。すなわち家別役銭は、浅草の弾左衛門の指揮のもと、幕府の公儀御用の下級警察吏として危険を伴う犯人探索や逮捕などの仕事のなかで、特に弾左衛門が幕府から請け負っていた仕置役(行刑役)を、地方のえたには享保九年(一七二四)から銭で、さらに寛政八年(一七九六)からは銀で組下の一軒ごとに課したものである。
絆綱銭は、やはり弾左衛門が請け負っていた江戸城内の御厩へ納める絆綱を、配下の人々に割当て銭納させたものである。これはえたの生活圏である旦那場内の職場で、死んだ牛馬を取得し、牛馬の皮・毛・爪などをとって浅草の問屋へ売り渡す仕事に対しての課役(役銭)である。これは寛政八年からは職場年貢銀と呼ばれるようになった。
また、牛馬皮口銭は、取得した死んだ牛馬の皮の枚数に応じて課せられるもので、嘉永七年(一八五四)に新設されたものである。その他、草履作りの仕事、さらに下駄の鼻緒を作る仕事などがあったが、これらは逆に一つの特権として認められていた。もちろんこれらの生産物についても課税はあった。
これに対して非人は、もともと他の場所から村へ流浪してきて住み着いた者が多く、そのため村で雇う野番・山番・水番などの番人をやった。また、えたの人びととともに公儀御用の警察吏の仕事にも携わった。しかし、非人は田畑を所有することを禁止されたばかりでなく、他の一切の仕事に就くことを禁止された。そのかわりに村から夏や秋に番給や扶持を与えられたり、村内をまわって物をもらって歩くことが権利として認められていた。その他、えたが取得する死んだ牛馬を職場を巡回して発見し、その皮を剥ぎ、皮・毛・爪をその日の職場の権利を持つえた(場主)に届ける仕事があった。これには場主からお礼として「風呂敷小刀代」が支給された。
このように人びとは、仕事の上でも差別されており、田畑を所有できた一部の人を除いて不安定な収入に頼る貧しい生活を強いられる者が多かった。

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