北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第4節 身分制度と差別の強化

4 差別解消への胎動

幕府のこうした差別強化の施策に対し、徐々にではあるが経済力を蓄え差別の不当を意識したえた・非人は、差別解消に向けて立上がった。そのため各地で訴訟が起ったり、ときには大きな事件に発展したものもあった。
県内でも天保十四年(ー八四三)に入間郡内で鼻緒騒動と称される大きな事件が起きている。この事件は、入間郡内の部落の者が越生今市村の市に下駄の鼻緒を売りに行き、そこで悪質な差別的扱いを受けたことが端緒であった。部落の人たちと今市村の村民との対立抗争はしだいに拡大して部落側に六〇〇人もの人たちが集結したため、ついに関東取締出役が事件の収拾に当たることとなった。しかし、その結果は部落の人たちに対する一方的な弾圧で、捕えられた者二五二人、うち江戸に送られた者が九七人に及んだ。裁判の結果、獄門・死罪・追放・手鎖等の刑が全員に言い渡された。しかも入牢中や帰村後に死亡したものが四九人に達したと言われ、取調べの厳しさは言語に絶するものがあったと想像される。これに対して今市村側では、事件当事者四人が手鎖、名主・組頭が過料銭といった極めて軽い刑で、あきらかに差別裁判であった。
この事件は、部落にとって貴重な収入源であった鼻緒の生産販売に対して、悶着(もんちゃく)を口実にこれを圧迫しようとした今市村、ひいてはこれに乗じて弾圧しようとした幕府権力に対して強力な抵抗を挑んだものであった。失敗に終わったとはいえ、差別に苦しむ人々が連帯して立ち上がった意義は高く評価されよう。
次に市域で嘉永四年(ー八五ー)に起った一つの事件を見よう。この事件は農業の傍ら草履つくりを家業としていた松五郎にかかる差別に対して、地域の人たちが立上がって圖闘った訴訟事件である。訴訟の文書で事件のあらましを見ると、近隣でも道楽物と評判の高い重治郎は、松五郎が畑仕事をしている所にやって来て、被(かぶ)り物をしていることや他所へ行くときに傘をさしていることについて、「長吏身分の者にはあるまじきこと」と言掛りをつけ、傘を打ち壊したうえ何かと難題を吹っかけてきた。相手にならないでいると、重治郎は益々増長して去る三月には、松五郎の持っていた傘を打壊したうえ殴掛って乱暴を働いた。さらに「長吏たちが傘をさすことはもちろん、羽織を着たり、旅に出るとき脇差などをさしていたら、見付け次第取り上げ、松五郎のように殴りつける」と近辺をうろつき回っている。このよう不当な所業に対して、同人の兄仲次郎に掛合ったが相手にしてもらえなかった。そこで、次に組頭に善処方を願い出たが、組頭は仲次郎兄弟の言分ももっともであると願出を断った。やむなく、今度は名主方へ行き、ことの始末を申しのべ抗議した。これに対して名主は、重治郎の行いは悪いので厳しく注意するが、お前らも長吏身分で傘をさしてはならないとの答え、この不法な措置に松五郎らはその後も種々嘆願したが、心得違いといってうけ合わず、以後傘を差すことを禁じられてしまった。これに対し松五郎たちは、日ごろから村内の人たちに恨みを受けるような覚えも無いし謂(いわ)れも無く、傘の類の使用を禁止されては雨や雪のときたいへん難渋する。もともと重治郎や仲次郎が我々の身分の掟に干渉するのは筋違いで、身分が低いと馬鹿にして難題を吹っかけている。名主もこれを制止してくれないどころか、これまでは何ら問題にもならなかった傘をさすことまで禁止するなどもってのほかで、これでは安心して御用向きの用事はもちろん、畑仕事や家業にも差し支えるとして、やむなく町奉行所に訴え出たとある。この訴訟の結末は裁判には至らず、
  ① 去る三月、重治郎が酒に酔い、傘に当って壊したことについて詫びを入れること
  ② 松五郎たちと名主の間で訴訟することについて行き違いがあったこと
  ③ 今後、松五郎たちは名主からの触・達などをよく守ること
  ④ 村役人は松五郎たちの身分や捷に干渉する権利の無いこと
などを取り決めて内済(和解)となった(『鈴木家文書』三)。
この事件では、当時の社会情勢のもとで不当な行為に対して泣き寝入りすることなく毅然たる態度をもって、差別者本人や同兄が組頭・名主らと闘い、それでも抗議が入れられないと奉行所にまで訴えた松五郎たちの主張が認められ、実質的に勝利を得ることができたと言える。
為政者による謂(いわ)れ無き差別と闘った身分解放への胎動をここにみることができる。しかし、真の解放への運動は、この時点ではいまだ不十分であり明治維新以後に託されることになった。

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