北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第3章 農村の変貌と支配の強化

第5節 治安取締りと改革組合村の設置

2 関東取締出役の設置

商品経済の発展を背景にこれと結託して幕政を行い、領主経済の破綻(はたん)、農村の疲弊(ひへい)、武士の生活の窮之、そして幕政の腐敗を招いた田沼時代の後を受けて、これの改革に取組んだのが、老中松平定信であった。寛政の改革がこれである。
しかし、もはや時代の趨勢(すうせい)はこれを受入れるところとならず、失敗に終った。特に江戸を中心とする関東一円は、幕府のお膝元でもあり、その影轡は大きかった。
その結果、以前にも増して農村の風俗は乱れ、無宿人や無頼の徒が横行するようになった。さらにこうした状況を助長したのは、三〇万石余を支配していた関東郡代伊奈忠尊が寛政四年(一七九二)に失脚したことである。その後勘定奉行がこれを兼任し、数人の代官が支配するようになったため、取締りは緩み、農村の乱れは一層進んだ。
こうした状況に対して、幕府は自らの権威を保ち、農村の治安を確保するために何らかの手を打つ必要に迫られた。翌年、岩鼻陣屋を設置し、代官二名を置いて取締りを強化したのをはじめ、さらに代官の手付・手代・町奉行組下を関東一円に派遣して取締りに乗出した。しかし、この幕府の対抗策実施に最大の障害となったのは、関東における所領の形態で、幕府直籍領(天領)・大名領・旗本領・寺社領と様々であり、そのうえそれらが相互に入組んでいたため、統一的な警察権が行使できなかったことである。それに、幕府直籍領を支配する代官をはじめ、大名や旗本も十分な警察力を持っていなかった。したがって、事件を起した犯人も支配者の異なる領地に逃げ込むと、簡単に手が出せず、犯人をみすみす取逃がしてしまうことが多くなった。
そこで幕府は、文化二年(一八〇五)に関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)を設置した。これは代官山口鉄五郎の建策によるもので、勘定奉行の命によって、関東四手代官(品川・板橋・大宮・藤沢)である早川八郎左衛門、榊原小兵衛、山口鉄五郎、吉川栄左衛門を取締代官に任命し、その配下で腕利きの手付・手代二名ずつを選び、計八名を関東取締出役(通称、八州廻り)に任命した。なお、この人数は、同四年には一〇人、同十三年にはー二人に増員された。彼らは二人一組で関東八か国を幕府直轄領・大名領(水戸藩を除く)・旗本領・寺社領の区別無く回村して警察権を行使し、無頼・博徒の取締りを行った。その組織を見ると次のとおりである。
なお、出役に四人の取締代官の下の優秀な手代がそれぞれ選ばれたが、早川八郎左衛門の手代は斎藤弥右衛門・大橋勇右衛門、山口鉄五郎の手代は馬利丹次・桑村庄八郎、榊原小兵衛の手代は石川安右術門・早川市左衛門、吉川栄左衛門の手代は佐々木豊次郎?岩佐茂十郎の八人であった。
彼らは廻村にあたり、勘定奉行から「関八州の御料・私領?寺社領?市中の取締りのために差遣わした者である。悪党や怪しい者を見つけ次第探索して召捕り、もし他国へ逃げた者も召捕ることになっているから、各々在所の役人は協力するように」との書付けを与えられて、その任務遂行に当った。また、そのとき、出役一人について、小者・足軽・道案内人が各一人ついた。
しかし、なにせ少人数であったため、徒党を組んで徘徊する博徒らを相手にすることは、なかなか難しく、また、後には捕ばくした犯人の留置費用や江戸送りの費用をその村の負担としたため、村々の協力を得ることがなかなか困難であった。
市域の世相を窺う資料として、本編第二章第五節第三項「村の規制」でも述べたが文化九年(一ハニー)三月、下石戸上村の村民九〇人が申し合わせて連印した村議定がある(近世№四四)その申合せた内容は近年賭事が流行しているが、今後博奕をしたり、たとえ僅かな賭事でもした者は、親類縁者でもお互いに見逃さないようにし、捕まえた時は一人につき罰金二貫文づつ、宿(場所)を提供した者は五貫文づつ、宿の両隣は一軒につき二貫文づつ必ず払わせること。決してお互いに見逃さないようにし、もし野山などでやっているのを見かけたら追い払うこと。尤もその際費用が掛かったならば、ここに連印した者全員でいかほどでも負担すること。とこのようになつている。
このことは、裏を返せば当時市域においても博奕などの勝負事が盛んに行われていたことを示している。ー方、こうした議定は、治安を乱す元凶として厳重に取締りを行っているものであり、村民みずからの申合せというよりも、むしろ幕府の意向を反映して作られたものであったろう。

図15 勘定奉行の組織とその支配

<< 前のページに戻る