北本市史 通史編 近世
第3章 農村の変貌と支配の強化
第5節 治安取締りと改革組合村の設置
3 文政改革と組合村の設置
幕府は関東取締出役の廻村の効果を上げるため、新たに関東全域を対象とした対策を実施した。それが文政改革である。文政十年(ー八二七)一月、取締代官として山田茂左衛門・山本大膳・柑木兵五郎が任命され、その配下の者のなかから一〇人の取締出役が選ばれた。そのうち二人は江戸詰めで遊軍的なものとし、他の八人が関東八か国を分割して担当した。そのうち武蔵国を担当したのは、山田茂左衛門配下の手付吉田左五郎、山本大膳配下の手代河野啓助・太田平助、柑木兵五郎配下の手付脇谷武左衛門であった。
幕府がこうした人員配置を断行した翌月の二月、勘定奉行は関東八か国に対して改革組合村の組織を命ずるとともに、文政改革議定と呼ばれる前文のついた四か条の教諭書とそれに続く四〇か条からなる細則を発した。これは「御取締御改革」とも呼ばれるもので、それまでに出されていた取締令を集大成した内容である。その内容を見ると、まず、前文ではこの議定発令の趣旨を述べ、続く四か条では、
(1)村役人はじめ村人は五人組前書を良く読み、守ること
(2)神事祭礼や冠婚葬祭は質素にすること
(3)歌舞伎・相撲をはじめ、興行がましきことは禁止のこと
(4)新たに商売を始めることは禁止のこと
などについて述べている。これに続く四〇か条では、組合村設置の規定、無宿者・博奕打ちの取締り、強訴・徒党の禁止、奢侈の風俗矯正、祭礼・冠婚葬祭の質素倹約、、農業をはじめ家業出精の奨励、新規の商人の禁止、農民の帰村・帰農の奨励、囚人の捕ばく・移送・飲料等の費用負担などを細かく定めている。このなかでは、とくに新規の商人の禁止や強訴徒党禁止の条項が重要とされている。
組合村の組織編成は、原則的には地理的便宜を考え、領主のいかんに関係なく、まず、三~六か村を単位に小組合をつくり、名主の代表者を小総代とする。この小組合を幾つかまとめて四~五組合を目安に大組合を作る。そして、大組合のなかで、中心的な村を定め寄場といい、その名主を寄場役人といった。組合村は寄場役人と小総代の中から選ばれた複数の大総代とによって運営されるものとした。
取締出役は、先の文政改革議定を携えて廻村し、この組合村の組織化を進めた。取締出役は、寄場となるような村に出向き、そこに近隣の村々を集めて議定の趣旨を説き、組合村の編成を行わせた。そして、小組合村を単位として議定の内容を順守する旨の請書を提出させた。桶川市倉田や浦和・大宮方面でも文政十年六月に請書を提出した史料が見えるので、中山道筋ではこの時期に組合村が編成組織されたのではないかと考えられる。しかし、組合村編成に当たってトラブルもあったようで、桶川市倉田の明星院では、住職の不在を理由に組合村編入を拒んだが、認められ、結局小針領家村などの小組合に組込まれてしまった。また、川越藩が幕府の方針に反して強引に藩内だけで組合村を編成したことは有名である。
図16 桶川宿寄場組合
(『桶川市史通史編』P353より作成)
図17 鴻巣宿寄場組合
(『市史近世』№20より作成)
桶川宿外五九か村組合(石高二万八九三石余、家数四五三四軒) |
寄場☆桶川宿 |
・上村 南村 久保村 門前村 菅谷村 |
・小針領家村 須ケ谷村 小針新宿村 |
・羽貫村 上平塚村 中平塚村 内宿村 大針村 |
・坂田村 下加納村 上加納村 倉田村 篠津村 五丁台村 |
・☆下川田谷村下分 下川田谷村上分 上川田谷村 樋詰村 領家村 |
・下石戸上村 下石戸下村 石戸宿宿村 |
・井戸木村 町谷村 春日谷津村 中分村 菅谷新田村 藤波村 上日出谷村 下日出谷村 |
・下中丸村 下中丸村 山中村 元宿村 |
・柴山村 荒井新田村 井沼村 上平野村 高虫村 駒崎村 |
・三箇村 下大崎村 上大崎村 |
・栢間村 根金新田村 貝塚村 上閏戸村 中閏戸村 下閏戸村 |
(桶川市史参照 ただし舎人新田村根金村 小林村 新堀村 戸ヶ崎村が欠落) |
鴻巣宿外四二か村組合(石高二万一五二三石余、家数三九ニー軒) |
寄場 鴻巣宿 |
・常光村 下谷村 宮内村 古市場村 別所村 ◎花ノ木村 |
・高尾村 荒井村 滝馬室村 ◎原馬室村 |
・中曾根村 上谷村 生出塚村 東間村 ◎深井村 |
・登戸村 宮前村 八幡田村 ◎箕田村 |
・中野村 大間村 ☆◆糠田村 ◎小谷村 |
・市縄村 中井村 三ッ木村 川面村 三丁免村 |
◎寺谷村 |
・☆郷地村 ◎安養寺村 |
・下種足村 中種足村 境村 新井村 ◎上種足村 笠原村 |
・関新田村 ◎真名板村 藤間村 赤城村 |
(近世№二〇天保十一年五月 鴻巣宿寄場組合高村名大小総代名前書上帳ただし北根村欠落)
注北本市域の村
◎ 小総代の村
☆ 大総代の村
◆親村 ここに天保四年から囲補理場設置
なお、この組合村の編成にあたって、中山道筋では、それまでそれぞれの村々が属していた宿場助郷村がその基盤になっていたようだ。
これらの村々では、前述のように囚人の護送・警備にあたる番人足や宰領の日当、囚人の食糧費・宿料、護送に必要な縄代などを負担した。こうした治安維持にかかる経費まで課せられることは農民にとって大きな負担であった。