北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第6節 人馬役負担の増大と紛争

1 人馬役の増大

通行量の大と助郷
助郷に指定された村では宿駅から人馬を触れ当てられると、その指定した日時迄に人馬をだ<すことになるが、実際の負担はどれくらいであったか見てみよう。
桶川宿の定助郷(じょうすけごう)であった下石戸上村を例にとると、同村は『元禄郷帳』では三〇七石余の村高であった(近世№一〇)。享年二十一年(一七三六)に出役した総人馬数はのべ三八七人・五二五疋で、出役日数九〇日に及んでいるから、一日につき人足約四・三人・馬五・八疋の負担であった(近世№ー八三)。しかし、馬一疋には馬士一人が付き添うから、人足として約ー二・三人・馬五・八疋という計算になる。ちなみに、寛保三年(一七四三)の同村の人別帳によれば、家数九四軒・馬三〇疋であるから(近世№一五四)、若干年代の差はあるものの、大略一軒の負担は人足が九・四日に一度、馬が五日に一度ずつ出役することになる。この出役を月別に見ると次頁のようになる。
三~一〇月の間に出役数が多くなり、最も多い十月には人足ー二五人であるから九四Ifで割ると、一軒からー・三三人の人足を出したことになる。従って三~十月では毎日一軒から一人程度の人足を出し、馬は二度弱の負担であった。また、この時期は農繁期でもあったから助郷役の負担はさらに重くなるのである。
一〇一一一二
人足ニ一ニ一六七一一六七五一一ニ九九八七九四一二五一九四二
一ニ一二四二七一四四六三五七五四五六七三二四二四

文化五年(ー八〇ハ)六月に出役した人足は三一四・二人にも及び(近世№一八四〇)、この期の戸数を天保十一年(一八四〇)の七三軒から推定して八〇軒とすれば、一軒あたり約四人分を勤めたことになり、農繁期であるから助郷村の人手不足は予測に離くないであろう。もっともこの数は、下石戸上村の負担分を六名の者が請け負っているから、この時期には人馬役を請け負う専門の者が出現していたことになる。

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