北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第6節 人馬役負担の増大と紛争

1 人馬役の増大

助郷役の請負い
宿駅から人馬役を触れ当てられた助郷村も、その数が少ないうちは正人馬勤めといって実際に人足と馬とを負担するが、その負担能力を越えた時は、負担の軽減を求めて訴訟を起こし、それでも人馬役負担を遁(のが)れられない場合は、代替えをするようになっていく。代替えを依頼する相手は、宿駅であったり、村内の者であったり、また他村であったりする場合もある。
寛政十二年(ー八〇〇)四月、日光東照宮において恒例の法要が営まれることになり、日光道中杉戸宿(杉戸町)に増助郷が設定された。その増助郷に指定された上篠津村に代わって、葛飾郡大島村(杉戸町)では一〇〇石に付き二両二分二朱の割合で助郷役を請け負った。上篠津村が増助郷役を依頼した理由は①に遠距離であること②に人馬が不足していることのニ点であった(『桶川市史資料編四』№ー九六)。
市域での助郷役の請負をみると、安政四年(一八五七)十二月鴻巣宿の定助郷である荒井村は、下谷村(鴻巣市)に翌年一か年間の請負を次の条件で依頼した(矢部洋蔵家三一四)。高一〇〇石に対し永一〇貫四〇文の割合で安政五年一月元日より十二月二十四日迄とするが、諸通行のうち加助郷の負担、老中の通行、加賀前田氏の通行当日、遠国(おんごく)奉行の通行、番頭(ばんがしら)の通行、公家および高家の通行については、荒井村が正人馬で勤め、それ以外を下谷村が請負ったのである。内金として五両を十二月に受け取り、残りは来年六月晦日までに支払うということである。これらの事について鴻巣宿問屋が承認し、奥書きを認めているから、助郷役の請負いは助郷村・請負人・問屋とが合意して成立するのである。翌六年十二月には荒井村の者が同村の助郷役一六五石を請け負うという文書がある(矢部洋蔵家三一六〇それには万延元年(一ハ六〇)正月から十二月晦日までのーか年を二四両三分で請け負い、その条件として「いずれも、どのような大通行があっても、村方より正人馬など出させず、請負金の増額はしない」として名主・百姓中に証文を提出している。
二つの請負証文を比較すると、下谷村の請負額はー〇〇石に付き永一〇貫四〇文であるから、両に換算するとー〇両四〇文(一両=永一貫文で換算)となり、助郷高一六五石で一六両二分六六文になる。一方、村内の者の請負いは二四両三分となるから、八両余多い。もっとも双方の請け負う条件が異なっているから、そのまま比較はできないが、下谷村の請負った以外の負担分が八両余と考えてもよいであろう。
荒井村の者が請け負った分を示すと次のごとくである(矢部洋蔵家三一六・六〇三・三二二・三二三・四五八・七五)
万延元年 (一八六〇) 二四両三分
文久元年 (ー八六一) 二四両三分
文久二年 (一八六二) 二六両二分
文久三年 (ー八六三) 三〇両
元治元年 (ー八六四) 四〇両
慶応二年 (一八六六) 七四両一分
請負額を見ると大通行があった翌年に値上げされていることが知られる。文久二年の値上げは前年に和宮の通行があり、文久二年には参勤交代制が緩和されて妻子らが国元に帰るという通行量の増大があり、文久三年には将軍家茂の上洛などがあって、人馬役の負担が重かったためであろう。もちろん請負額値上げの要因は幕末社会の動乱による物価の高騰が根底にあるが、慶応初年の凶作などもー要因となっている。

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