北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第3章 農村の変貌と支配の強化

第6節 人馬役負担の増大と紛争

1 人馬役の増大

明和の伝馬騒動
江戸時代において大通行といえば、参勤交代に代表される大名行列、毎年四月日光東照宮に弊帛(へいはく)を奉納するために朝廷から遣わされる日光例弊使、将軍家のために京都の宇治から運ばれる茶つぼ道中、オランダ人が交易を許された礼として参府するカピタンの参礼、琉球から遣わされる琉球使節、朝鮮からの朝鮮使節、将軍の日光社参および上洛、将軍家に嫁するための姫君の通行などがあげられる。もっとも一般通行と大通行との区別には、規定があるわけでない。さきに掲げた通行のうち大名行列・日光例弊使・茶つぼ道中は例年みられるが、カピタンの参礼・琉球使節・日光社参および上洛・姫君の通行はどちらかというと数年に一回であるから臨時的なものであろう。また通行量からみると日光社参は供奉人数がニーー万三〇〇〇人余、その人足ニニ万八〇〇〇人余、上洛は三〇万七〇〇〇人余の随行員を数えた時もあるから、これらはまれに見る人数であり、少ない時は数百人程度のこともあった。このうち中山道を通行するものは、大名行列・日光例幣使・将軍の上洛・姫君の通行などである。

写真22 参勤交代図

会津(福島県)藩松平氏の参勤交代の行列(会津若松市蔵)

宿駅や助郷村においても人足役および馬役の提供は、支配者への夫役負担であるから苦痛であった。特に春秋にはその負担が集中するため、農民は農事への手間がさかれることになり、場合によっては再生産にも支障をきたすこともある。江戸幕府は増加する通行に対応して助郷制を設け、定助郷・代助郷・大助郷・増助郷・加助郷などの各種助郷を創設してきた。しかし、江戸中期以降、農村部へも貨幣経済が浸透して、農民層が大高持ちと零細とに分かれる階層分化が見られるようになると、零細農民には人馬役負担が一層困難なものとなった。
こうした状況において明和元年(一七六四)の伝馬騒動は、助郷課役の反対をめぐって信濃・上野・北武蔵の農民が参加し、その数は二〇万人ともいわれている。この騒動は明和元年九月に、翌年四月の日光東照宮一五〇年忌大祭のため、幕府が中山道宿駅への増助郷課役を定めたことに対する反対運動である。増助郷の対象となった村々は、中山道板橋宿から信州和田宿までの二八か宿周辺で、武蔵・上野・信濃に及ぶものである。増助郷に反対する動きは、明和元年閏十二月に信州から起こり、上野・北武蔵へと拡大していった。同月十六日、児玉郡十条村(美里村)の身馴川の十条河原に結集した農民およそー万八〇〇〇人余が本庄宿に押し寄せ、上州の農民と合流し、深谷・熊谷宿などの増助郷を願った宿駅や村役人・有力農民宅を壊しながら江戸へ向おうとした。
幕府はこの騒動に驚いて閏十二月二十九日に増助郷を中止したが、その後も一揆は問屋?名主・地主・商人などへの打ち壊しを継続していった。明和二年正月五日付で幕府が増助郷を中止したことを伝える触書(近世№ー九一)には、足立郡二か村・埼玉郡七か村・比企郡三〇か村・入間郡二六か村・高麗郡四か村の計六九か村宛となっているから、桶川宿の増助郷予定は六九か村であったことが知られる。前述の触書の請書によると、市域で含まれるのは荒井村枝郷の北袋村のみであるが、他の諸村はすでに定助郷はじめ各種の助郷に指定されていたからである。触書には「先達て中山道桶川宿の増助郷を設定するために代官を派遣して村柄を調査させたが、中止することにしたので、そのことを申し付ける」とある。そして「この触書にそれぞれの村では村役人の印形をついて提出せよ」というものである。
また、年不詳ではあるが三月、下石戸宿・下石戸下・下石戸上・上中丸・下中丸・山中・本宿の市域七か村を含む二八か村が打ち壊し騒動の始末について取り調べを受けた際に提出した「御吟味に付申上候」は次のようにのべている(近世№一九二)。
当月四日川西(吉見方面)の百姓が押しかけ、川田谷村名主宅が壊された時、近隣諸村の宿がこれを阻止しようとした折りに、多くの手負人や死人などを出した。これはどこからともなく助郷を潰そうとした人々が集まって騒ぎがおきた。川田谷村は、彼等の荒川渡河を不可能にすれば、そのうち役人がきて騒動を取り鎮(しず)めてくれるだろうと思い河岸の船を使えなくした。ところが四日、彼らは川田谷の渡し場を避けて渡河し、名主宅を打ち壊そうとしたので、それらを防ぐため手負い人や死者をだしてしまった。これは遺恨があってのことでなく、また死者も大勢によって打殺された様であり、加害者を特定することもできない。という主旨である。『市史近世資料編』の解説では明和四年三月としているが、明和元年暮れから発生した伝馬騒動の関連だとすれば同二年正月四日であろうし、同年三月のものだとすれば、一連の伝馬騒動と異なる史料で「定て助郷の村々可相潰沙汰仕候て所々人夫相集候由」とあるものの、本質は名主を対象とした打ち壊しであろうと考えることができる。

<< 前のページに戻る