北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第7節 荒川舟運と脇道

1 荒川の舟運と高尾河岸

荒川と舟運
荒川はかっての国境いであった甲武信岳に源を発し、本県のほぼ中央を流れ、やがて東京湾に注いでいる。江戸幕府は利根川・荒川などの洪水・氾濫から江戸を護るためと、新田開発の目的から河川の改修や流路の付け替えを積極的に実施している。荒川は寛永六年(一六二九)、関東郡代伊奈半十郎忠治によって大規模な流路の付け替え工事が行われた。久下(熊谷市)で荒川を堰止め、その流れを南側の低地を流れていた和田吉野川に落して本流とし、久下より下流の荒川は元荒川となって現在に至っている。こうした河川の治水工事は、ほぼ寛永年間(一六二四~一六四四)に完成し、それによって江戸に集まる舟運が完成したのである。
一方、寛永十二年(ニ八三五)に参勤交代が制度として定められると、それによって江戸の人口が増加し、その食糧としての飯米や、売却するための年貢米が江戸へ集められたのである。また、旗本の財政難を救済する目的で実施された「寛永の地方直し」は、それまで蔵米を受取っていた旗本が関東各地に知行を与えられることになり、知行地から江戸への年貢米搬入も行われるようになった。こうしたことからも舟運が発達する条件が整った。

写真23 高尾河岸場跡

陸上の宿駅のような役割を果たしたものは、河川交通では「河岸」と呼ばれている。利根川筋の舟運においては慶長年間(一五九六~一六一四)に河岸場での取立てが見られるが、荒川では寛永年間(一六二四~一六四三)である。寛永年間には荒川に限らず、関東の河川においても多くの河岸が成立しているが、その理由は先に述べた諸条件からである。年貢米はじめ物資の船積みは河岸場からなされ、元禄三年(一六九〇)幕府が年貢米輸送の運賃を調査したものによれば、荒川筋には八代河岸(大里町か)・五反田河岸(吹上町)・高尾河岸・戸羽谷河岸(河島町)の四か所が本流に、支流の新河岸川に二か所があげられている。その後、明和八年(一七七ー)から安永四年(一七七五)ころにかけて調査された河岸は、荒川本流では御成(鴻巣市)?荒井・戸田(戸田市)・玉作(大里町)の四か所が公認された河岸場となっている。これらは幕府の認めた河岸場であるが、この他未公認のものも多く存在した。ちなみに『新記』によると、市域にある河岸場や渡船場は、石戸宿・高尾村・荒井村にそれぞれ一か所ずつの計三か所あげられている。滝馬室村・糠田村・川田谷村などにもその記述がある。
近世に成立した河岸場は三つに分類されるといわれ、第一は幕府や領主の設定によって成立したもの、第二は町人または農民の資本投入により成立したもの、第三は前二者のような特定者による設定以外のもので、自然発生的なものである。こうして河岸場は寛文年間まで多く成立し、元禄年間ごろまでには一応の形が整えられた。その後若干の新規成立もあるが、安永年間(一七七二~一七八〇)以後は固定化する傾向を示し、幕末には既存の河岸が一部没落する一方、新しい河岸が続々と成立するという動向にある。

【北本さんぽでの紹介】

『北本さんぽ第22回 高尾河岸とカワセミと』

高尾河岸の解説は(10:10辺りから)

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