北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第7節 荒川舟運と脇道

2 脇道と立場

脇道
市域にある代表的な道は中山道であるが、それ以外の道もいく筋かあった。全国的に江戸時代の道を区分する場合、東海道や中山道などの五街道およびそれに付属する道と、それ以外の道に分けている。前者は幕府道中奉行の支配下に属し本街道とか街道と呼ばれ、後者はそれぞれの所の領主に支配権があり、脇道や脇往還などと呼ばれている。従って市域の場合は中山道が本街道であって、それ以外の道は全て脇道であった。
脇道は本街道と比べて総体的に通行量が少なく、さらに幕府の公用通行や大名・公家などの通行もはるかに少ない。市域の脇道機能は宿・町・村を相互に連絡し、寺社参詣・河岸場、居村と耕地を結ぶなど、いわゆる庶民の生活道が主であった。
『新記』に収められた「正保武蔵国絵図」によると、市域の脇道は次の三筋が知られる
1本鴻巣(本宿)村から北へ山中村・別所村・上常光村を経て栢間村へ達する道
2本鴻巣村から南へ下石戸村・石戸町へ達する道
3東新田(東間)村から南へ高尾村・荒井村を経て石戸町へ達する道
寛政十二年(一八〇〇)十月桶川宿が中山道の分間延絵図作成のために書き上げた「桶川宿分間絵図仕立御用宿方明細書上帳」(近世№一七五)によると、脇道として桶川宿から継送る先は①岩槻道原市村へ一里半②川越道は古谷上村へ二里半川田谷村へ一里③菖蒲道は高虫村へ一里二四町をあげている。
『中山道分間延絵図』には、脇道は勿論野道までの記載があり、中山道から分岐する脇道をあげると次のようになる。桶川宿内から北へ菖蒲・騎西への道があり、高虫へ一里一四町とあるから前記の①であろう。宿をでた西方には村道が北に通じ菖蒲・騎西への道がある。さらに上日出谷村から吉見へ通じる道が南にあり、これは②であろう。本宿村の東側から南へ村道があり、これは中針村から秋葉山へ向かう道であるというから2であろう。また、本宿村の中央下茶屋から北へ菖蒲へ達する道が分かれるが、これは1に当ると思われる。東間村の三軒茶屋からは南に高尾を経て川越城下に達する道は3である。北からは高原村を経て騎西へ達するとあるが高原村は宮内村の誤りであろう。また東間村の西方からは北へ騎西道が分かれ、南へは高尾河岸に至る村道が分かれている。深井村と上谷新田の境から南へ高尾河岸を経て川越、さらには大山参詣への道があり、上谷新田からは東へ深井・東間・宮内・市場・山中を経て岩槻へ向かう道が分かれている。
以上が市域を中心として中山道から分かれる脇道の主なものをあげたが、他にも村と村とを結ぶ幾筋もの道があり、これらは庶民の生活道であることが知られる。
脇道の支配権はその所の領主にあったが、実際にはそこの村が維持管理していることが多い。最近まで実施されていた郷普請は、各村が農道などの修理として古くから伝えられた村の共同作業の一つであろう。

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