北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第7節 荒川舟運と脇道

2 脇道と立場

立場
立場茶屋と茶屋、宿場や街道などで旅行者の求めに応じて昼食や茶・菓子・団子などを提供する休憩所を茶屋といった。茶屋の起源は鎌倉時代の中ごろ、街道沿いの寺院などが接待所として設けた接待茶屋・施行茶屋までさかのぼるといわれる。

写真24 立場茶屋図

(根本山参詣飛渡里案内)

江戸時代、交通に関係する茶屋には設置された場所によって二つに区分される。一つは宿場内の出入口付近に設けられたもので、所によっては茶屋町を形成することもあった。宿場内にある旅籠屋は休泊することを原則としているから、昼食は茶屋でとるのが一般的であった。しかし、大名の昼食は本陣でとるのが原則とされていたが、財政のひっ迫などにより茶屋を利用することがあった。
一方、宿場外の街道筋の間(あい)の村に設けられた茶屋は、立場または立場茶屋と呼ばれて一般旅行者や大名などの休憩に利用された。立場とは人足などが籠を止めて休む所を指している。旅行者の宿泊は宿場でとることが定められているので立場茶屋でのそれは禁止されていた。茶屋も立場茶屋も旅人の接待をする給仕女を置いていたので、売笑化することになり、幕府は延宝六年(一六七八)新しく茶屋を営業することを禁止すると共に、給仕女は一軒につき二人以内と規制し、衣服も布か木綿に限らせ、営業時間も明け六ッ(午前六時)から暮れ六ッ(午後六時)までとすることなどの規制をした。しかし、茶屋が飯盛旅籠と類似の行為をすることは止まなかったようで、幕府は正徳二年(一七ーニ)・享保八年(一七二三)・文化二年(一八〇五)と禁止する触書を出している。文化二年の触書を例にあげると、宿駅以外の間の村々において煮売茶屋を営む者が、旅人の泊休を引受けたり、また、茶立女を抱えて旅籠屋まがいのことをなし、駄賃馬にて荷物をも継送っている。これらは宿駅のさまたげになるので中止すること。すでに正徳五年・享保八年にも触書をだしたが、近ごろではそれが緩んできて、諸家の通行の休息を引き受けている風聞もある。立場は人足が休息する所で大名・旅人に食事を提供して休憩を引き受ける行為は間の村では中止すること、もし間の村へ休泊等の先触れがあったら前後宿へ変更して、その宿より通行する者へそのことを連絡せよとしている。
市域は桶川宿と鴻巣宿の中間にあたり、中山道筋に沿う村は間の村であった。特に本宿村はその位置から間の村の様相を帯びることになった。寛政十二年(ー八〇〇)十月の「桶川宿分間絵図仕立御用宿方明細書上帳」(近世№一七五)には桶川・鴻巣間の立場の記載がある。それによれば、
ー 当宿より鴻巣宿迄の間立場壱ヶ所
  但、字三軒茶屋同所より鴻巣宿迄道法三拾丁、桶川宿江壱り御座候

と述べられている。すなわち東間村の字三軒茶屋に立場があり、そこは鴻巣へ三〇町、桶川へ一里の距離であった。三〇町は約三・二四キロメートル、ー里は約三・八八八キロメートルにあたるから、この距離は人が歩いていて休息するに都合の良い地点であった。この文書は前の部分が欠損しているので、立場は三軒茶屋一か所だったかどうかは不明であるが、江戸後期ごろ成立した「中山道宿村大概帳」(『近世交通資料五』)には、次のように記してある。
ー 此宿より鴻巣宿迄之間立場壱ヶ所
 本宿村地内字下茶屋
  但、桶川宿江三拾町
    鴻巣宿江壱里
 東間村字三軒茶屋
  但、桶川宿江壱里
    鴻巣宿江三拾町

ここでは、本宿村の字下茶屋と東間村の字三軒茶屋に立場があったことを示している。二か所の立場は桶川・鴻巣両宿から一里又は三〇町の距離にあたることから計画的に設けられたと考えられる。また双方の字名も立場が設けられたことから生じたもので「茶屋」の文字がつけられており、三軒茶屋は茶屋が三軒あったことからその名が生じ、下茶屋は三軒茶屋の下手(江戸寄り)にあたる所からその名がつけられたものと推測される。
立場が設けられる場所は、宿と宿との中間や脇道が分岐するあたりが多く、下茶屋からは菖蒲道が分かれ、三軒茶屋からは騎西道および高尾河岸への道が分かれている。『中山道分間延絵図』によると、下茶屋は中山道の北側菖蒲道の分岐点と八幡宮の間に設けられ、三軒茶屋は中山道の南側、高尾河岸へ向かう道の西方に設けられている。従って中山道を急ぐ旅人は桶川・鴻巣の中間として休息をとり、中山道から分かれる旅人、また脇道から中山道へ合流する旅人は、そこで休んで目的地に向かい、または帰路についたのであろう。

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