北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

2 民間信仰と寺社参詣

市域には江戸期に造られたさまざまな石造物がある。表43は、『北本市石造遣物所在目録I~Ⅲ』(北本市文化財調査報告書)より江戸期の石造物を一覧表にしたものである。
表43 10年間隔石造物造塔一覧
種別
西暦
地蔵念仏供養庚申塔道祖神諸神廻国・六十六部 観音霊場巡り 名号・題目・真言 経典読論塔
1600—9 
10—19 
20—29 
30—39 
40—49 
50—59 
60—69 
70—79 
80—89 
90—99 3 荒 神
 神明社 
1700—9 
10—19 
20—29 
30—39 
40—49 
50—59 
60—69 
70—79 1 八幡宮 
80—89 1 稲 荷
 大明神
90—99 1六地蔵 1 水神
1800—9 
10—19 1 猿田彦 
20—29 1 石 神 
30—39 
40—49 
50—59 
60—67 
不明 
計 11 47 11 10 

(『北本市石造遺物所在目録Ⅰ~Ⅲ』より作成)


庚申信仰
市域における民間信仰で一番多く造塔されたのは庚申塔で、江戸期のもの不明分も含めると四七基ある。三分の二近くが十七世紀末から十八世紀の前半に建立されている。この時期は近世村落がほぼ完成した時期に当たっており、市域の全般に分布している。庚申信仰が地縁的結びつきで夜を徹して語り合い、酒食を共にする庚申講として村落共同体の維持形成に大きな役割を果たしていた。

写真26 庚申塔

宮内

庚申信仰は古く中国の道教の説にはじまり、六〇年または六〇日ごとにめぐりくる庚申の夜、戒慎して諸善を行うべきであるというので、わが国では平安期の貴族社会にはじまり、鎌倉期には武士階級にも広まり、室町期になると民間信仰化し庶民の間にも広がった。市域にも中世板碑に庚申待板碑がある。ー、二例を上げると本町二丁目の地蔵堂境内には「月待供養明応九年(一五〇〇)庚申二月廿三日」、東光寺収蔵庫内には「申待(さるまち)供養永禄二年(一五五九)二月日」(『北本の板碑』(北本市文化財報告書第九集))などがある。江戸期になると広く庶民の間に普及宮した。
市内の最古の庚申塔は宮内五丁目内路傍にある延宝六庚年(一六七八)のもので、写真26のように邪鬼を踏み三猿を従えた一面六臂の忿怒相の青面金剛を本尊とした塔である。市内の庚申塔の過半は三猿を刻んだ三猿型庚申塔である。最新の庚申塔は、高尾二丁目内路傍にある慶応二年(一八六六)銘のものである。庚申は申待(さるまち)ともいわれ、猿の信仰とも結びつき、猿を従者としたものである。石戸宿一丁目内路傍にある宝永二年(一七〇五)の庚申塔は正面に「奉造立青面金剛尊慈父慈母滅罪生善及以法界」、背面にキリークと「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれ、阿弥陀仏との習合がうかがえる。朝日三丁目内路傍の天保二年(ー八三一)の庚申塔の青面金剛の宝冠は馬頭観音の宝冠で、馬頭観世音との習合が見られる。金剛盤面に、先の宝永二年の塔のようにやや長い願文を刻したものは少ないが、石戸宿四丁目内路傍の元禄十二年(一六九九)の庚申塔の「奉造立青面金剛像二世安楽処」といった来世の安楽を願った願文が少なくない。「庚申塔」とのみ大きな文字で刻銘された文字塔も四基ある。
庚申信仰の形態、内容を伝える文献資料や伝承も絶無で『市史民俗編』にも触れていない。しかし、庚申塔の銘文
からは、江戸期には村落内の地縁的結合を通した講が結成されていたことがよく窺える。「奉造庚申講中」、「九丁村中十八人」、「武州鴻巣領下中丸村同行」、「下石戸村上村講中」、「当邨(とうそん)(東間村)世話人飯野長蔵、松木善右衛門(以下六人連名)」などの銘文がありし日の庚申講を今に伝えている。

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