北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

3 庶民教育の普及

市域の寺子屋
さて、市域の現時点での寺子屋の存在の確認されている最も古いものは、寛政~文化年間(一七八九~ー八一七)にかけての活躍が考えられる中丸八丁目の安養院である。師匠は安養院の第一三代住職静栄和尚である。静栄が文化四年(一八〇七)に没していることのほか寺子屋の事情を知る手がかりは何も残されていない。第二に古いのは朝日二丁目の無量寿院の墓地にある「徳門大徳」という墓石から窺(うかが)えるものである。この石碑は子息の柳井藤馬と筆子たちによって建立されたものである。筆子たちは師匠に徳門大徳という尊号を贈り師恩に報いたのである。師匠の徳門大徳(生存中の名前不詳)は文政元年(ー八一八)に亡くなっているので、活躍した時期は安養院の静栄とほぼ同時期であったと思われる。寺子の詳細は石碑以外からは知りえないが、この建碑に名を連ねているのは、当村(常光別所村=朝日一、二丁目)一四人、花之木村(朝日三、四丁目)五人、中丸・本宿・山中・古市場の四村が各二人、常光村(鴻巣市)の五人、合計三二人となっている。寺子は常光別所村を最多にして隣接の近村から通ってきている。師匠の柳井家は代々農業を営み名主を勤めた家で、大徳は名主役のかたわら子弟の教育に携っていた農民の師匠である。
第三は、文化文政期(ーハ〇四~一八)ごろ活躍した宮内村(宮内二丁目)の大島耕運である。大島家の庭に今も現存する報恩碑の銘文を掲げると左の通りである。

耕運先生諱宥栄ハ当郷大乗院の男也、入木の道に志深く東都百瀬耕延先生に学び、筆法の奥儀を究め、筆道日増に繁栄なりける、惜むべし文政十三庚寅年八月十二日五十七齢にして卒す、高年に及ハハ遠き境まても其名聞えることを本意なしと、門葉志をあわせ師恩を報せん為に碑を造立のことまでを志(し)るす。
 流れ行世に習ひてし飛鳥川
    百瀬に?(た)えぬ水茎のあと
 于時天保二辛卯年文月建立
         武州足立郡宮内村
           東京穐長堂誌
       百瀬耕延門人
     同 野崎耕書女 十五歳書

(近世№二ーー)



文中の大乗院は小松原(鴻巣市)の瀧本坊支配下の修験寺である。耕雲はここに生まれ、大島家の養子となり寺子屋を開いたものである。報恩碑の台石には一〇七人の筆子の名前が刻んである。深井の三五人を筆頭に下谷三〇人、宮内ーー人、山中八人、東間七人、別所三人、花ノ木二人などとなつている。
第四は、高尾六丁目の阿弥陀堂にある「蘭臺関先生之墓」碑および「関眠翁」碑である。蘭臺関は常陸(茨城県)の人で、寛政十二年(一八〇〇)高尾に来村、寺子屋を開き、天保十二年(ー八四一)八五歳で亡くなるまでの四〇年間にわたり、多くの寺子たちの教育に当たった。「蘭臺先生之墓」の碑文は次の通りである。

写真29 関眠翁

(高尾阿弥陀堂)

先生関名眠字黌?蘭臺常陸真壁郡山田村人父善左衛門世為村長先生甞仕田沼侯於江戸後辞遊歴諸国周訪名流槍劔射御書計之精蘊以寛政庚申春来我村以書為業門人益多終以天保十二年丑歳八月二十日没享年八十五
この墓石の裏面には、建立の発起人門人として新井一輔利貞、新井弥兵衛保貞の二人の名が記されている。没後二〇年の文久元(一八六一)年に建立された。
これより先の来村後二〇年経過した文政四年(ー八ニー)、翁六四歳の時に筆子たちによって建立された碑が「関眠翁」の碑で、催主は新井周吉でほかに一六人が名を連ねている。生前の建立からして門人の蘭臺に対する畏敬尊崇の念の厚大であったことが推察される。
第五は下石戸村の寺子屋である。石戸宿六丁目の天神社に「五穀豊穣祈願」の大型絵馬(九〇×ー二〇センチメー卜ル)が奉納されている。これに「文政八年二月吉日下石戸村吉田氏筆子中奉納」とあるところから、その存在が確認される。この師匠の吉田氏は下石戸上村の名主である。
以上のほかに、時期は確定できないが、幕末から明治の初期に及んだ寺子屋をあげると次の通りである。
 遍照寺 星吉隆證和尚 中丸四丁目に所在、明治初
            年廃寺。隆證は新潟の人
 霊性寺 島村定吉師匠 中丸八丁目に所在、明治初
            年廃寺。定吉は神奈川の人
 寿命院 法岫和尚(第三十代) 深井四丁目
 多門寺 松本文庵師匠 本宿二丁目
 放光寺 洒水師匠 石戸宿六丁目
北袋村の地蔵院(高尾四丁目)墓地には「四海先生之墓」なる碑がある。四海先生は北袋の名主斉藤家の生まれで俗名を源八と称した。この碑の台石の裏面に刻んだ文字も風化が進行し判読しがたくなっており、事蹟を正確に記し得ないのは残念であるが、源八は明治十九年(ー八八六)に没している。医を業として儒学に通じていたところから近隣の子弟に教授するところとなつた。没後当家の斎藤多聞が施主となり子弟門人らの賛助をうけこの碑の建立となった。四海先生の四海が論語の「四海之内、皆兄弟」からとっていることは容易に想像されるところである。

写真30 四海先生の墓

(高尾地蔵堂)


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