北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

5 北本の俳諧

企地方との交流
市域には俳句の額、すなわち俳額は一つもないが、市域によっては神社仏閣に多数残されている。比企郡滑川町大字中尾にある加田薬師堂には五道庵竹二坊指導下の福田社中と吉見社中各一七名が文化十年(一八ニニ)に俳額を奉納している。この吉見社中の中に石戸の二人が加わっていたことがわかる。

置所あちこち替て蚊遣かな  石戸 タ江
軒は日に光る寒さや今朝の霜 同  野タ

俳句の愛好者が村外に積極的に進出し、社中に加わり活動したことがうかがえる。
文久元年(一八六一)井上亀友は埼玉県域在住二ニニ俳人の句を編集し『つつみの花』を出版した。亀友は、明治の初年埼玉の三学者の一人と称された国学者の井上淑陰(よしかげ)(文化元年坂戸市石井に生まる)の三男で俳句をよくした。この句集にも市域の人物の作品が四句選ばれている。

見渡せばここもにしきぞ花の土堤   桐左 (石戸 高橋朝次郎)
暮ゆくもしらぬ遊びやはなの中    氷山 (石戸鈴木屋金輔)
さかづきでなしの殖えるはな見かな  保積 (荒井 国五郎)
袖に香をつつみの花の戻りかな    花月 (本宿 竜覚院)

句は載ってないが、都々美能花作者姓名録には、右の四人のほかに、花暁(本宿 岡田銀次郎)、鎖春(荒 井矢部近蔵)の二人がいたことがうかがえる。ちなみに、桶川市域では三人となっている。市域からは宗匠を排出するまでには至らなかったが、先にみた嘉永四年(ー八五ー)の芭蕉句碑の石戸連中やこの『つつみの花』に紹介されている人物から判断して、十九世紀に入ると市域の俳句界も一応の水準に達してきたといえよう。

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