北本市史 通史編 近世
第3章 農村の変貌と支配の強化
第2節 商品生産の展開
2 商品作物の生産
酒造業酒造の歴史は、古く原始・古代にまでさかのぼるものであるが、ここでは近世における市域の酒造業について述べてみたい。
江戸時代の幕府や藩にとって米穀はその経済的基盤をなすものであり、その米穀の加工業である酒造業は、近世のはじめからもろもろの規制を受けていた。
徳川幕府の酒造に関する基本的な政策は、第一に酒造業者を城下町や宿場町などに集めて監視下に置き、農村部における農民の酒造業を禁止した。第二に残署の厳しい秋口よりも良質の酒ができ、商品価値の高い寒の季節に造る寒酒に限定したことである。これは都市部の酒造業者に特権を付与する代わりに冥加(みょうが)金を徴収するという財政的利点もさることながら、農村部における酒造業の禁止は「慶安の御触書」にも見られるように、農民がむやみに酒を飲むことを禁止する農民統制の一環としても意味があった。
明暦三年(一六五七)、幕府はこの政策を実施する方策として酒造株を制定し、鑑札を発行した。これは株高(造石高=酒造米高)と営業者の住所・氏名が書いた株札で、同一領内だけで有効であった。そして、この株高は時代とともに増加していき、株改めが行われたが、元禄十年(一六九七)の株改めを「元禄調高」といい、その後の基礎的な数字となつた。
ところが、享保期(一七一六~一七三五)になると、新田開発と農業技術の発達とによって米の生産額が増加したため、米価が下落し、幕府にとっては憂慮すべき事態となった。
ここに至って、幕府の酒造に対する政策は大きく転換した。すなわち、余った米を酒造業者に買い取らせ酒を造らせる酒造奨励策をとった。酒造米の使用許可の量によって米価を調節し、それによって米価の下落を防止しようとした。そして、都市部に集中していた酒造業を、これまで禁止していた農村部にまで拡大させていった。
貨幣経済の浸透により農村部においても経済活動が活発化したという社会的背景のもとに、土地の集積によって大量の小作米を手にした地主層のなかには、酒造株を取得して酒造業を始めるものが現れた。
写真17 酒株譲証文の事
(吉田眞士家蔵)
また、天保十三年(一八四二)当時荒井村名主を務めていた平兵衛が請けた酒造米一七〇石の酒造鑑札の写しが残されている(矢部洋蔵家 一四八三)。これをみると市域でも天保期にはもう一人の酒造業者がいたことが知られる。
そのほか、市域の酒造業者の存在を示す資料を探してみると、幕末ではあるが、吉田眞土家の慶応二年(一八六六)の文書のなかに、桶川宿寄場組合六〇か村の酒造業者が記されているが、石戸宿村の嘉右衛門の名前がみえる。参考までに前述の資料で桶川宿寄場組合におけるそのほかの酒造業者を挙げると、桶川宿五人、上川田谷村一人、下川田谷村二人、坂田村一人、倉田村一人(以上 桶川市)、上村一人、南村一人、中平塚村一人、中分村一人(以上 上尾市)、羽貫村一人(伊奈町)、小林村三人、新堀村一人、戸ヶ崎村二人(以上 菖蒲町)で、市域も合わせて合計で二二人となる。酒造高は不詳であるが、平均で三村強に一軒の酒造業者がいたことになる(近世№ーニ〇)。
一方、市域の村々が所属するもうひとつの組合である鴻巣宿寄場組合四三か村についてみると、翌慶応三年に組合内で酒を過造した業者の一覧を示す資料がある。この資料は過造したものだけを記載してあるので、網羅(もうら)しているとは言いがたいが、これによると、荒井村の平兵衛と宮内村の安兵衛の二人の名前がみえる。ちなみにこの資料で組合内の酒造業者をみると、鴻巣宿四人、常光村一人、宮前村一人、箕田村一人、笠原村一人、郷地村一人(以上 鴻巣市)、上種足村一人、下種足村一人(以上 騎西町)で、同じく市域を合わせると合計一四人になる。ここでも三村に一軒以上の割合で酒造業者がいることになる(矢部洋蔵家 一四八五)。こうしてみると、幕末に市域一五か村では三軒の酒造業者がいたことになる。他と比較してやや少ないようだ。
写真18 酒造り絵馬
(荒井観音堂)
こうした事例をみると、酒造株をもっていながら自分ではやらずに他人に貸付けることもあったようだ。ここに出て来る越後の国の栄蔵や善三郎という人達は酒造を専門とする職人と思われ、現在の杜氏の存在を窺(うかが)わせるものである。
ところで、災害などで米が不作の時も大量の米を使って酒を大量に造れば、世の中の食用米が減って値段が上がり世情の不安や不満が増大して政治がやりにくい。特に人口が集中している江戸では打ち壊しなどもしばしば起こる。こうしたとき幕府は、まず酒造業者にたいして、酒造高の制限をして米価の調整を図った。
水野忠邦による天保の改革が断行された年の天保十二年(ー八四一)に、幕府は全国の酒造業者にたいして「株高の三分の二造」を命じた。すなわち鑑札に記載された酒造高の三分の二に当たる量しか生産を許可しないこととした。この場合は不作というよりも幕府の政策的な意味があったが、安政五年(ー八五八)には関東地方が出水で不作であったので、関八州の酒造高を半高(二分の一)としているし、万延元年(一八六〇)には上方から東海道にかけて度々出水して不作となり米価が高騰しているので、当分の間全国の酒造業者にたいして株高の半高造を命じている。そして、維新も近い慶応二年(一八六六)には、四分の一造りを命じると共にさらに酒造高五〇石以下は休業、五〇石以上でもできるだけ休業するようにという厳しい規制が行われている。もし、隠し造り(密造)や過造すると厳罰に処せられた。こうした規制を徹底させるためには関東取締出役の下役人などが回村して来て酒造桶などの道具類に封印をした。
一方、生産された酒の販売についてみると、天保十四年(ー八四三)に荒井村の酒造人平兵衛が酒代金の売掛貸金が回収できないために出入りとなっているが、その相手方の地域をみると、市域の本宿村・東間村をはじめ鴻巣市の滝馬室村、大宮市の遊馬村、比企郡川島町の鳥羽井村・牛ケ谷戸村・一本木村・畑中村、同郡吉見町の江川村(江川新田か)の八か村、一三人にわたり、その金額も七二両余と銭三九貫余という大金であった(近世№一一八)。ちなみに天保十一年、江戸では米一石(一四二・八キログラム)が一両一分余であり、金と銭との換算率は、金一両につき銭六九八〇文であった。