北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第2節 商品生産の展開

3 農村金融

質 屋
後述するとおり、文政十年(ー八二七)に「文政の改革」が断行されると、文化二年(一八〇五)に発足していた関東取締出役は、この改革組合と直結して農民生活全般にわたって統制強化を図った。農間余業についても厳しい取り締まりが行われ、しばしば実態調査が行われた。なかでも庶民の金融であった質屋は、当初は土地(田畑)を担保としたが、 農村への商品経済の浸透により衣料をはじめとする雑品も扱うようになり、ややもすると農民生活の崩壊を招く危険があったので、幕府の取り締まりは一段と厳しく、新たに開業することはなかなか許可しなかった。しかし、一方で幕府は質屋仲間を結成させ、保護する代わりに多額の冥加金を納めさせた。
天保九年(一八三八)の幕府の調査で、下石戸上村には、三軒の質屋があった。
一軒は文政十年の調査のとき、すでに質屋を営んでいた村内の組頭竹次郎で、開業は二六か年以前というから文化十一年(一八一四)となろう。竹次郎は扱った質草を送り質といって、近隣の原馬室村の要右衛門に送っている。
他の二軒は今回の調査にたいする書き上げで、一人は百姓庄左衛門で六か年以前巳年より、とあるから天保四年(一八三三)に質屋を始めたことになる。また、もう一人はこの村の名主徳太郎で、こちらは四か年以前未年よりとあるので、天保六年創業ということになる。この二人は文政十年の調査以後、すでに開業していた質屋仲間の同意を得て村役人に申し出て許可されたという。そしてこの二人はいずれも下川田谷村の甚左衛門に送り質をおこなっている。この甚左衛門は、明和元年(一七六四)暮れから翌年の正月にかけて北武蔵を吹き荒れた伝馬一揆のとき、一揆勢に襲われたことのある石戸領きっての豪農であった甚左衛門と同一人物であろう。ここで使われている送り質という言葉を考えると、こうした巨額の富を有する豪農が質屋の中の質屋である親質屋として、周辺の質屋から質草を担保として資金を融資していたものと思われる。

写真19 質屋組新規加入許可願

(吉田眞士家蔵)

次に質屋の開業については厳しい制約があったが、ここに上中丸村の百姓忠蔵が文久三年(一八六三)十一月に質屋新規開業並びに仲間入り願いを関東取締出役に提出した許可願がある(近世№一二六)。
これによると、この忠蔵は持高一二石余で家族は八人とあり、それほど経営規模の大きな農民とは思われないが、新たに質屋を開業するに当たって、村方(村役人か)とすでに営業している質屋仲間(組合)の承諾を取り付け、名主も連名で改革組合の大小総代宛に回村してくる関東取締出役に提出してくれるよう依頼している。果たしてこの願いが聞き届けられたかどうかはその後の資料がないので不詳である。
いずれにしても、江戸時代の庶民金融であった質屋は現代の銀行業務に通ずるものがあり、人々の日常生活に深く浸透した経済活動であった。

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