北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第1節 異国船の渡来と村落

2 ペリー艦隊の浦賀来航と開国

嘉永六年(一八五三)六月、国務長官代理コンラッドの訓令を受け、フィルモア大統領の親書を携(たずさ)えて新任のアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、遣日特命全権大使として浦賀に来航した。浦賀奉行の懸命の応対により、ペリーは国書に対する回答を一年延期して退去した。

写真35 異国船渡来御武侵御用金割合帳

(吉田眞士家蔵)

このペリーの渡来に対して早速防備の御用金が村々に課せられた。市内にのこされているべリーの渡来に関係する唯一の史料が嘉永六年十一月の「異国船渡来御武侵御用金割合帳」(近世No.三二)である。この御用金賦課の発令者は記名してないが、領主の牧野大内蔵時成(よししげ)と思われる。賦課の理由は「異国船渡来御武備旁御物入多ニ付」きというもので、旗本にも応分の防備負担がかかってきたことがわかる。併せて防備にまつわる出費も負担されたいというもので、石戸宿・下石戸上・下石戸下・上川田谷・樋詰・下日出谷の六か村に対して金五〇両が課せられた。市域では石戸宿村が六両一分余、下石戸上村が一〇両一分余、下石戸下村が一〇両二分余であった。この御用金を当時の年貢勘定目録と引き合わせてみると次の通りである。一口に年貢勘定といっても大別して、田方年貢米勘定、畑方年貢勘定、流作年貢勘定、野山金勘定の四種で米そのもの、銭勘定・金勘定でまちまちであったが、これらを当時の相場で金に換算した年貢高は石戸宿村五二両余、下石戸上村七四両余、下石戸下村一一一両余であった。この防備御用金は、第二章第四節の四項で述べてあるいわゆる地頭賄いの費用である。従って、年貢とは異なり、領主の都合で必要に応じて課せられるものなので、この後も防備のご用金を課せられた可能性があるが、その記録は残されていない。いずれにしても、異国船の渡来が末端の農民までこのような形で負担を強いてきたのである。

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