北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第2節 幕末の世相

3 農民のくらしと世相

慶応四年(一八六八)といえば、前年の十二月に王政復古が宣言され、天下の帰航は決したとはいえ、年が明け一月には鳥羽・伏見の戦い、徳川慶喜追討令、新政府の職制が定まり、二月には慶喜の上野東叡山への蟄居、三月にはは討幕軍が上野で彰義隊を討つなど天下の情勢は激しく変転し九月には明治と改元された。

写真38 日記帳

(加藤得寿家蔵)

このような慶応四年の二月一日から閏四月六日までの九五日間にわたる日記が、中丸一〇丁目の加藤家にある(近世版一七四)。ー農民の綴った日記とはいえ書きこなした文字で文章も平明簡潔、当時情報源としては中山道筋が最高であったであろうし、しかも農作業のかたわら、頻繁に伝馬人足で駄賃稼ぎをし、社会に直接触れていた人物の手になる日記だけに、当時の農村のあり様をよく表しているとみてよい。また、当時の人々の具体的な生活を知ることのできる貴重な史料でもある。筆者は後年聳養子になる身であるが、このころはまだ生家におり、二〇歳前後で自由に振舞っていた。この日記から窺えることは当主でなかったこともあってか、本節の第一項で述べた治安が弛緩する村内のようすの記述はなく、総じて幕府の激動・緊張・緊迫的気分からはほど遠く、日々の生活は旧来と余り変わることなくのどかなものとして捉えられ、天候に気を遣い、農作業や村の内外との交際に明け暮れるというものであった。これも当時の農民の一つの姿であろう。以下、順次日記を取り上げる。
二月朔日 早より夕方迄雨天二御座候、七ッ時分(午後四時ごろ)に隣家礒右衛門参り候、夫より再両人ニてかるた等致候、其日は休ける
二月二日 快晴二御座候、乍然(しかしながら)北風列(烈)敷候、鴻巣宿江薩摩(さつまいも四表)弐駄(だ)売候、其日は相場(ねだん)拾貫五百文、同宿福島屋二て荷縄買候、ー掛代二朱卜五攵二て相成候、兄義は由五郎宅江普請(建築工事)手伝ニ参り候、仕野(しのう)屋棟上二相成候、
二月三日 天気快晴二御座候得共少々北風有之候、我等其日は朝より溜ヲ引候、四ッ時分(午後十時ごろ)より又々風吹シ候
二月七日 早朝より天気快晴二御座候、我等其日は桶川宿江駄賃(小遣いかせぎ)二参り候、四ツ時分二鴻巣江参り八ッ時分(午後二時ごろ)迄遊候、夫より帰りて馬造ひ(世話)ヲ致候て仕舞ける

概ねこのような平凡で何の変哲もないようなくらしぶりが展開されている。
二月十日 明七ッ時分(午前四時ごろ)より雲出候、其日一日相雲り候、我等九日の暮六ッ(夕方六時ごろ)御伝馬二参り候、其時人足拾六人馬弐疋にて御座候、御通行の御殿は忍様二御座候、此度御公儀(公用)二て候、御用人と相成、水戸浪人凡弐百人余御捨兔(赦)二相成候、桶川宿御泊二候、五ッ時分(午前八時ごろ)二出立致候、上尾宿江参り候

忍城主が幕府の用人として出府する、その伝馬であるから御公儀となるわけで、人足一六人・馬ニ疋が割当てられたことがわかる。一方水戸の浪人二〇〇人ほどがお役追放となり桶川宿に宿泊したことが記されている。
二月十五日 朝より快晴二御座候、我等昼前山ヲ莉候、夫より昼食二相成、其日は休日二て候、色々江戸出府の支度致
二月十九日 明方の内雲多く有之、段々明六ッ時分(午前六時ごろ)二相成候次第二相晴来り候、夫それより支度致候、後々二は誠二快晴二相成候、其日は我等江戸表出府致候、七ッ時分(午後四時すぎごろ)二日本橋通り二丁目元大工町江鉄五郎普請致候、我等夫相尋参り候、夫二て永々休足致ける

出府の動機は判然としないが、農閑期でありおそらく同郷の出身者鉄五郎を訪ね講談をきき、芝居見物、参詣などの物見遊山が主であった。
二月廿二日 朝より雲多く出候、風等は無之(これなく)我等四ツ時分(午前十時ごろ)より罷出(まかりいで)候、芝神明・愛宕山・増上寺等江参詣致候、諸々見廻候、暮方帰参仕、頓(やが)て暮六ッ時分に相成雨多降来候
二月廿三日 朝の内雲多く有之これあり候得共、五ッ時分(午前八時ごろ)に相成快晴に御座候、我等其日ニは御昼頃より築地門関前ニ異人屋敷相立候、夫ヲ拝見二参り、其節は御普請最中二御座候、夫より諸々見廻り暮方二帰参仕候(以下略)
二月廿四日 天気快晴二御座候、我等早朝より支度仕候、両国江参芝居拝見仕候、帰りの節吉屋二て油相買候(下略)

廿一日には「其日は和宮様江戸上拝ヲ(野カ)四ッ時分に出立御座候、我等日本橋二て拝見仕候、東海道ヲ上り江戸表二ては当将軍無之候、夫二付諸大名は不残(のこらず)国引籠乱世と相成候」と書いているが、一般庶民は乱世とは無関係にのどかに暮しているように見える。しかし、商店主などは金子等の無心に逢い、自らも江戸滞在中危急の場に遭遇したことが記され、世相の一端が窺える
二月廿四日 (前略)其夜会津の侍十八九人一ーて通り二町目藤木屋江這(はい)り、数多金子等ヲ拝借致候、夜八ッ時分(午後ニ時ごろ)の事也
二月廿七日 天気快晴二御座候、四ッ時分(午前十時ごろ)二相成我等兄同道致本庄重吉宅江参り早々相帰り、両国二て諸々見廻り暮方二帰参仕候、我等五ッ時分(午後八時半ごろ)夜休二出候時、会津の侍に出合、彼是等言罷掛大キニ驚既危(すでにあやうき)処也、能仕合二て候、大難ヲ相遁(のがれ)候、誠二皆々悦ける

このころ慶喜は官軍に恭順謝罪書を提出し、上野の東叡山寛永寺に蟄居している。最後まで幕府に忠誠を尽した会津の藩士も、今は江戸市中で生活苦にあえぎ非法を働きつつ借金を重ねている様子が描かれている。二十七日にはこの藩士らと直接出会い、言いかがりをつけられ危うかったが、逃げのびて喜んでいる。江戸にー〇日間滞在して二十八日の午前十時ごろ出発、蕨宿に一泊して帰った。
帰村後も何くれとなく生活をくりひろげかつ楽しんでいる。夜中の早籠(はやかご)も勤めている。
三月三日 朝より雨天二御座候、我等酒魚の用意仕候、頓て昼時分に相成、篠津村(桶川市)伝蔵参り候、夫より酒盛二て候暮方二相成候、御伝馬相当候、我等参り夜九ッ時分(午前〇時ごろ)上より早籠二挺参り、其時人足才次郎・忠吉・周蔵・米吉・権太郎・佐次郎右六人にて上尾宿江参り誠に雨天難義(ママ)二御座候
三月五日 雨続き雨天ニ御座候、其日二は芋種上候(むろから出す)、丑の日ニて休日二御座候、八ッ時分(午後二時ごろ)より相休候、暮方ニ相成油屋定五郎参り候、加納(桶川市)文五郎宅二て頼母子(顔母子辭)有之候、御両人一一て参り候、夫より東間村藤次郎参り候

さて、先に二月三日討幕親征の詔が発せられ各地で転戦しながら江戸に向っていたが、三月八日には東山道総督府が群馬の高崎に到着し、一転して騒然となってきた。
三月十日 朝より雲多く出候、其日は暮六ッ(午後六時ごろ)役(伝馬)二出候、桶川宿江は美濃大垣(1の軍)相留候、御逗留致、□名田宿々ヲ以て大軍(東征軍)有之候、我等夫より帰り、後の山より茅相付候、七ッ時分(午前四時ごろ)二相成雨降来り候
三月十一日 朝の内相雲り候、四ッ時分 (午前十時ごろ)二相成快晴二御座候、其日は岩倉殿御下向二て候、此度ーツ橋 (前将軍慶喜の軍)・会津此者ヲ打取レト、諸軍勢四百人斗(ママ)にて中山道を桶川宿江七ッ時分(午後四時ごろ)二御泊二相成候
三月十二日 朝より雲多く候、我等は御伝馬一ー出、四ツ時分 (午前十時ごろ)二上尾宿江相遣れ候、岩倉殿桶川宿ヲ九ッ時分(正午ごろ)ニ出立有之候、其日は羽生町・騎西町・菖蒲町・西の谷内笠原村出火、藤兵衛相焼候、相続鐘一郎・久蔵外々二も有之候、七軒程相焼候、川面大心(尽?)も相焼、郷地内ひる川も相焼候、夜中より昼等休無之、其晩トモ相焼、其日近村の人々大き二驚候、家等ヲ方(片)付候用意ヲ致ける、我等昼頃二相帰候、夫より早々一ー相方付候、其時岩倉殿の人数ヲ見懸歎願御申上(暴徒取歸りの歎願)早速二御取上有之、桶川宿より別事致候と引帰り騎西江出候、笠原江参り乱方(暴)の者共一四人搦取候、外三人は手向(反抗)二有之、其所二於打殺候、外七人は打首ニ候

この十二日の記録では「近隣の人々大き二驚候、家等ヲ方付候用意ヲ致ける、我等昼頃二相帰り候、夫より早々二相方付候」と緊急態勢をとっている。中丸地域まで事件は波及しなかったが、打壊し、焼打ちが間近かにまで迫ってき、人々が震撼としたようすが窺える。「被打毀建家并焼失家数調書上-慶応四年三月」(『鴻巣市史資料編五』№六)によると、この騒動による市域の近隣で焼打ちにあったのは、鴻巣市の大字笠原で四軒、大字下上谷で二軒、大字下郷地で二軒の八軒に及んでいる。
ところで、慶応二年(ー八六六)六月の武州一揆後、幕府は上州岩鼻代官所と連携し北関東地域支配の補強策として羽生周辺の一八か村を上知し、羽生城跡に陣屋を築造することになり、同年十一月に着工し、同四年二月に完成した。これと平行して幕府は銃隊取立(徴兵)を行ったが、武州の各地で反対運動がわき起り、騒動にまで発展していった。こうしたところへ〇長軍を中心とする東山道総督の先鋒が江戸へ進軍中の三月十日夕刻、羽生陣屋は東征軍により放火され焼き払われた。その夜、陣屋の築造に先達となったとされる羽生市近辺の名主層の家々が、軍用金や人夫役で苦しめられた近隣の農民により焼き打ちにされた。この騒動は翌十一日羽生のほか、久喜・加須・栗橋・鷲宮・菖蒲・騎西・鴻巣等へ拡大した(『県史通史編四』P八四六)。加藤家日記の三月十二日の条は以上のような背景をもつものであった。三月十六日にはこの余燼のような記録がある。
三月十六日 天気快晴二御座候、其日は村方参会有之候、火附乱方(らんぼう)者共立廻り候、其廻状深井村より村方江参、其会豆二は、別所村無量寺の鐘相成候ハヽ、後向の橋江相告候

この日記の後半(合図)には、しばしば鉄砲に関係(嗚)する記事が登場する。
三月廿一日 (前略)四ッ時分(午前十時ごろ)鴻巣宿東西ニて焔硝ヲ皂貫文相買候、百文二付拾夂買二候(後略)
三月廿三日 (前略)五ッ時分二相成雨降り候、煙硝ヲ相すり候(後略)

焔(煙)硝は硝石ともいい火薬の硝酸カリウムのことで、当時の鉄砲の弾薬に用いられていたものである。いうまでもなく、江戸時代には俗に「入り鉄砲に出女」と称せられたほどで鉄砲の所持は堅く禁止されていたが、例外として次の二つがあった。一つは作物を荒す鳥獣をおどすためのもので威(おどし)鉄砲といわれ銃弾はなく爆発音のみのもの、もう一つは猟師が用いる猟師筒(づつ)(殺生筒ともいう)があった。日記の筆者の鉄砲はあるいは前者のものであったのかも知れない。禁制の隠(かくし)鉄砲ならばわざわざ日記には書くまい。
三月廿六日 (前略)早朝より我等桶川宿江参り鉄砲ヲ相拵(こしらえ)候、代金壱両壱朱二て相買候(後略)
三月廿八日 (前略)鉄砲相出キ候、其夜は二本打候
三月三十日 (前略)七ッ時分に相成候、東間村石右衛門参り我等が鉄砲能々見物致候、夫より一寸御借被成と持参り候、明日迄と
閏四月六日 天気快晴、昼前畦ヲ上候、夫より丑の休日二候、我等相休候、鉄砲の台摧候

三月十二日以降一か月強、政治向きのことは書かれていず、日常的な農作業や隣近所との社会生活のことが書かれているに過ぎないが、四月十七日には「官軍様より関東一ケ国百石二付白米三俵金三両の御用金参り候」同二十九日には「其日は官軍様江戸表ヲ出行田江相詰メ、岩倉殿桶川宿江御泊二有之候」、四月朔日には「官軍桶川宿ヲ出鴻巣宿御弁当二御座候、子細あって鴻巣宿御勅使共御泊り二相成り候、凡人数八百人」と淡々と記している。時勢の推移について、彼ら(日記の本人は常にといっていいほど「我等」と表現している。兄を含む村内の友人と行動している)なりに感じ語り合うことがあったに違いないが、残念ながらそのようなことには少しも触れていない。支配者の交替があった激動の中にあっても身辺の事がらの記述に終始してこの日記は終っている。

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