北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第3節 通行と和宮降嫁

1 姫君の通行

大通行の一つに将軍家が京都の公家から正室を迎える時の通行がある。中山道を通行して江戸にむかった姫君は、享保十六年(一七三一)徳川家重へ輿入れした比宮、寛延二年(一七四九)徳川家治へ輿入れした五十宮、文化元年(一八〇四)徳川家慶へ輿入れした楽宮、天保二年(ー八三ー)徳川家定へ輿入れした有君、同じく嘉永二年(一八四九)の寿君がある。また文久元年(一八六一)徳川家茂に輿入れした和宮は著名で、その代表的なものである。これらのうち有君および和宮についてその様子と対応を見ることにしよう。
天保二年六月十八日、道中奉行佐野肥後守・曽我豊後守より中山道板橋宿から守山宿までの諸宿、さらに東海道草津・大津宿宛に触書が出された(『県史資料編一五』№三〇ー)。それによれば鷹司家の姫君(有君)が徳川家定のもとに輿入れするについて、八月一日迎えのものが江戸を発って京都に行き、八月二十五日京都出発、九月十三日上尾宿泊、十四日板橋宿泊、十五日江戸城に入るという予定であった。休泊を予定されている宿駅で準備するものは、休息の宿では上の分として唐紙帳の六尺屏風一双、次の分として青紙でも何でもよいが屏風二双、差し渡し一尺二寸程の五徳付きの火鉢二つとあり、宿泊の宿の屏風は上の分として同様のもの二双、次の分の屏風が同様に三双、火鉢は同様に二つと命じられている。また、通行路となる中山道の沿村には、道橋の修理や掃除、道路脇の芝の手入れ、休泊を予定されている宿は当日に限り火消しの者を定め、宿間が離れている所には中間あたりに休息場として駕籠を留める場所を作り、道中の賄い方は役人を遣わすのでその指示に従えというものである。それでも、宿駅間の横道を仕切ることや見苦しい家などの目隠しは必要なく「惣体軽く可被申付候」と述べているように、かなり簡素化されている。
また、幕府から有君の迎えとして遣わされた役人には御定賃銭が認められ、他に中山道筋の宿駅見回り役、さらには道橋普請役などが派遣され、道中の下見などを実施している。これらはいずれも公用通行であり、宿駅人馬の負担は大きかった。
同九月には、中山道宿駅の定助郷村に「心得方申渡」としての触れが出されたらしく、桶川宿の定助郷村である春日谷津村では、つぎの九か条を請書として代官へ提出した。
  • 有君の通行につき桶川宿役人から人馬の触当があったら遅滞なく詰め、名主・組頭が人馬送りの宰領として出役する。ただし、一五歳以下と六〇歳以上の人足及び弱馬は出さぬこと
  • 荷物は熊谷宿から上尾宿まで付け通しになるため、熊谷宿へ詰める人馬は強いものを選ぶこと
  • 熊谷宿に桶川宿の問屋会所を置き、当日はそこで桶川宿の助郷人馬を差配するので、助郷は村役人同道にて到着したら問屋会所へ報告すること
  • 名主・組頭はそれぞれの村の人馬を宰領し、桶川宿役人より荷物の割込みがあったらそこへ宵より詰め、出立前に支障のないように取計らうこと、人馬の者は途中で酒など飲んだり喧嘩を一切しないこと
  • 桶川宿役人より人馬触や御用向きの廻状が届けられたら、印形刻付をもって滞りなく送ること
  • 人馬寄場や食事は熊谷宿で手配するので村役人は良く心得ること
  • 桶川宿助郷はその旨を明記した腰札(長さ約三寸・幅一寸五分の木札)を携帯すること
  • 村々から惣代の者三人を選び、全て御用は惣代をもって申し出ること
  • 寄場にては火の元に注意し、くわえキセルなどはしないこと
などであった。そして名主・組頭が惣代となった旨の一札を認めて提出している。
以上から、有君の通行は熊谷宿から上尾宿までは通し人馬で送ることが知られ、そのため鴻巣・桶川両宿の助郷は熊谷宿へ詰めたのであろう。本来、熊谷・鴻巣・桶川・上尾と一宿ずつ送るのが定めであるが、有君の通行は臨時の大通行であったので、通し人馬が認められたのである。
また、助郷人馬の「詰方刻限」としての規定もあり、上宰領は熊谷宿より早詰めの人馬を召し連れて、十一日九ッ時まで惣代会所へ報告すること。下宰領は同様に十二日明け七ッ時まで詰め、上宰領へ報告し、上宰領から惣代会所へ報告すること、腰札は一人一枚とし長さ縦三寸、幅一寸五分とし、表は桶川宿助郷、裏は何村人足または馬誰と書くこと、人馬の食事は上尾宿へ継送った後、再び戻るまでに済ませること、熊谷宿から上尾宿へ継送ったら桶川宿の助郷会所へ札を提出すること、提灯は村ごとに人足五人に一張ぐらいを用意すること、などとあり、熊谷宿詰めの木銭は人足一人二八文、馬一疋五六文として上宰領が支払うこと、熊谷宿詰めの人足は銭六〇〇文・馬一貫二〇〇文が支払われることなどが定められている。
一方、中山道の間の村である本宿・下中丸・下加納・下石戸下・門前・久保・上村には、天保二年八月に「間村々
心得方申渡」(近世№一九三)が出され五か条が定められている。
  • 道路は有君通行の二日前から担当の村が掃除をし、その見分をうけること
  • 間の村は一村につき松明二〇~一五本位を用意して、夜中通行に支障がない様にすること
  • 中山道に沿う家は二階に目張りをすること。また、店先には草履などの見苦しい品は置かず、火の用心を心がけ、通行時は煙を出さないこと
  • 沿道の家ごとにきれいな手桶に水を入れて、柄杓を添え家の前に置くこと
  • 有君の通行当日は家の前に出てケンカや口論などをしないこと
などである。この内容から深井・東間の村々にも同様のことがさだめられたであろう。
有君の通行により使用した人足や馬の書き上げを下石戸下村の「有君様御下向二付熊ケ谷宿御伝馬人足宿割覚帳」(近世Naー九四)から見ると、次のようになる。
〈助郷村〉〈宿〉〈人足〉〈助郷高〉
上村・菅谷村中村屋五郎兵衛八二人八二三・九
大針村・関宿村山木屋利吉七一人七一五・〇
坂田・高虫・井沼ほうきや市郎右衛門(六九人)六九六・四
下加納・上加納・舎人新田・五丁代・篠津四ッ目屋卯右衛門七二人七ー九・二
栢間上下・小林・小針領家・倉田表具屋伊兵衛七七人七七三・八
藤浪・中分・春日谷津遠見屋仙之助三二人三二ニ・八
石戸宿・下石戸上下大和屋孫市・吉見屋馬次郎七五人七四八・九
中丸村上下・元宿・山中大久保平五郎七〇人七〇ー・一
小針領家・倉田粉屋仁兵衛(春日の屋儀兵衛)七三人六三二・五
上日出谷・下日出谷・上川田谷村田屋清右衛門(六八人) 六八二・三
井戸木・町谷・領家わた屋庄左衛門五五人五五〇・六
下川田谷上下よしの屋新左衛門九四人九四五・四
久保・門前・南山にや平八五六人五六一・八
これは、桶川宿の助郷人馬が熊谷宿へ詰めた際の宿割である。助郷高に対する人足は、おおよそー〇石につき一人の割で負担しており、助郷高のみで人足数のない分は正人馬でなく、代銭納といって貨幣で納めたのであろう。定助郷および加助郷が熊谷宿へ詰めた数は、人足ー九一五人・馬ーニ〇疋で、そのうち五〇〇人・二〇疋は十一日の夕方詰めで、一四一五人・ー〇〇疋は十二日の早朝詰めである。この他に二六〇人・一五疋が十一日夕方から十三日まで桶川宿へ詰めている。
他方、九月の「有君様御下向二付熊ケ谷詰人馬触出張の写」によれば、九一か村ニー八七人・一六八疋が熊谷宿へ詰めている(近世№ー九五)。先の定助郷・加助郷の合計を差し引くと二七二人・四八疋が残り、この分は定助郷・加助郷以外の助郷が負担したものであろう。
市域の助郷が勤めた人馬数を具体的に示すと次のようになる。
〈村名〉〈人足〉〈馬〉
下中丸二七
上中丸二九
山中
元宿一八
下石戸下三五
下石戸上三四
石戸宿二〇
一七〇人一六疋
この数は十一日夕方ら十三日迄の負担である。人足は、先の史料から助郷負担が一〇石につき一人の割合とすると、普通の農家一軒となり一人の負担、しかもこの時季が農繁期と重なって、通常の助郷出役を考えるとその負担は軽くなかった。

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