北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

3 地方三新法の成立と旧郡・町村の復活

三連合村の設置と連合町村会
表11 学区による改正戸長役場連合表(抄)
連合村名村  名戸  数戸長役場位置
(明治17年現在)
村(戸)連合村(戸)
東間村 北中丸村116413東間村18番地
勝林寺借受
 東間村58
 深井村60
 古市場村23
 山中村10
 宮内村57
 花ノ木村10
 北本宿村44
 常光別所村35
上日出谷村 石戸宿村148414上日出谷村8番地
熊井仁寿宅借受
 下石戸上村84
※上日出谷村51
 下石戸下村82
※下日出谷村414
原馬室村 高尾村181787原馬室村9番地
斉藤平吉宅借受
 荒井村155
※原馬室村219
※大間村80
※滝馬室村152

※は市外
(県行政文書 明511-131より作成)

写真7 東間村連合戸長役場が置かれた勝林寺

東間

北本市域の連合形態は、表11にあるように、東問村連合・戸数四一三戸、上日出谷村連合・戸数四一四戸、原馬室村連合・戸数七八七戸の三連合村に分かれていた。東間村連合は北中丸村・東間村・深井村・古市場村・山中村・宮内村・花ノ木村・北本宿村・常光別所村九か村、四一三戸の連合体で、戸長役場は東間村十八番地の勝林寺を借り受けて置かれ、人口は二七八一人であった。上日出谷村連合は石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・上日出谷村(現桶川市)・下日出谷村(現桶川市)五か村、四一四戸の連合体で、戸長役場は上日出谷村八番地熊井仁寿宅を借り受けて置かれ、人口は二四二三人であった。原馬室村連合は高尾村・荒井村・原馬室村(現鴻巣市)・滝馬室村(現鴻巣市)・大間村(現鴻巣市)五か村七八七戸の連合体で、戸長役場は原馬室村九十四番地斉藤平吉宅を借り受けて置かれ、人口は四八二五人であった。上日出谷村連合村と原馬室村連合村には、現在の北本市域外の村々が含まれているが、これは明治十四年(一八八一)の学区編成以来学区組合を編成した関係にあり、連合戸長制が学区設定とも深く関わっていたことを示すものである。他方、旧組合村や地形も連合の条件となっており、「戸長役場位置ハ可レ成中央ニ位スル町村トス」という要領にそって設定され、連合村の名称も、これに準じていたことがわかる。
次いで連合町村会の開会は、「区町村会法」(『県史通史編吾P三一二)の改正により、同十七年より開かれている。この改正の要点は、町村会の職務権限を町村費の支弁内容、及びその経費の支出徴収法の審議に限定したことである。また、議長は官選戸長となり、戸長には町村会の召集及び発案権、中止権が与えられ、治安を害すると認められる時は県会による停止権も認められ、中央の統制がより強まった。しかし、北足立・新座郡の場合、同十八年の町村会未実施は二二戸長役場に達しており、正式に行われたのはほぼ同数の二五戸長役場にすぎなかった(県行政文書明八九〇)。実態は、明治十六年以前の町村会の形態が継続していたようである。なお、連合町村会議員は、正式には各町村同数定員であり、町村の人口や面積に基づく定数差はなかった(表12)。
このような町村会で決議された町村費は、地価割、戸数割で徴収されるのが一般的で、例外として夫役や現品で徴収されることもあった。戸数割は当初低率であったが、同十八年度から政府が国家財政を節減するために、「土地に課する町村費は地方七分のーを超過してはならない」と規定してから、相対的に戸数割が重くなり、住民の負担は大きくなった。なかでも、教育費・衛生費・警備費の生活上の必要経費は住民に転嫁(てんか)され、連合戸長制採用の政府の意図がこの点にあったことを窺(うかが)い知ることができる。
表12 北本市域連合村会一覧

北足立
    郡長管理
新座


会  名関係町村数選挙区数議員員数
荒井村外四村連合会五 村五 区五 人
川田谷村外五村連合会六 村六 区六 人
第三十五学区連合会五 村五 区十 人

(県行政文書 明589より作成)


表13 町村会の審議状況         (明治16年現在)
 既  設未設特 色
北足立・新座58村旧来の寄合相談に似たり
入間・高離全村規則あり正常の町村会は10中の1、2
比企・横見1村茶話会に等しい
秩 父体裁整備7村減額税主張は当今の風潮
児玉・賀美・那珂村会81、連合会20過激にわたるものあり
大里・幡羅・榛沢・男衾193村3村いわゆる相談会多し
北埼玉4町160村19村数年来の慣行継続
南埼玉正規町村会多い46村略式をおこなうもの10中の 7、8
北・中葛飾最初は正則履行慣れて略式多し

(『県史通史編5』P327より引用)


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