北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第2節 地租改正の実施と村財政
3 河川管理
堰(せき)の改良ここでは、市域に大きな影響のあった元荒川に目を向けてみたい。
北本市域の東部の台地縁辺部は、元荒川水系の水田地帯の中にある。元荒川を利用する地域では、いち早く耕地整理事業が行われ、その中に中丸村が属していた。この中丸村が属していた北足立郡鴻巣町(現鴻巣市)常光村(現鴻巣市)連合耕地整理組合は、県下でも初期に耕地整理事業を実施したところであった。その鴻巣町常光村連合耕地整理組合の方式が、第五回内国博覧会において一等賞を受賞した。農業生産力を向上させるためには、どうしても改良が必要であり、特に安定した農業用水の用・排水の問題は、重要な点であった。この地域では、元荒川の堰の改良工事が考えられていた。
鴻巣町内の宮地堰が、一町七か村の一万一二九石をうるおす谷田用水の元荒川からの取水口であることから、耕地整理事業に先立つものとして、宮地堰の改良工事が実施されなければならなかった。しかし、区画整理にともなう用・排水路の設置は、町村内の利害もからみ、対立が生じる場合もあり、計画の変更や延期の申請がなされることが多かった。
この宮地堰の場合、明治三十一年(一八九八)度宮地堰に係る費用精算及割賦(かっぷ)表(近代№九五)によると、同堰の工事費用が三九円七四銭九厘と計上されていた。この費用の支払は町村ごとに草高に応じて決められていた。割賦の比率は、一〇〇石につき三九銭であり、中丸村は八七一石四升四合とされ、三円三九銭七厘が割り当てられていた。
しかし、こういった村の草高による割り当てにたいして、灌(かん)水田に要する費用を畑山林にも課賦することに対する異議が、「宮地堰改良工事費賦課法ニ付稟申(りんしん)」の中に具申されており、反対者がいたことも明らかである(中丸村二二)。
明治三十三年(一九〇〇)十月の段階で、宮地堰は、宮地堰改良工事決定書(近代№九六)に見られるように、「本年改良工事ヲ以テ成功」とされたが、他日組合町村の中で、用悪水ともに支障がある限り工事を変更し、元の形に戻すという取り決めがされていた。工事変更をするためには、費用の増額は必至で町村内のみの負担では見込みがたたず、県に陳情したことがわかっている(近代№九七)。
明治三十四年(一九〇一)六月に、この工事の概算が出されており、予算七二八一円九七銭五厘のうち、組合町村分賦額が四〇七六円八四銭一厘で、県税補助額が三〇九九円一ニ銭七厘であった。県からの補助額が約四二パーセントをしめるという額の多さからも、また県への陳情を行っていることからも、この宮地堰改良工事が、耕地整理事業の一環(いっかん)であったことがわかる(近代№九八)。