北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

1 小学校の設置と維持

小学校の設置
すでに述べたように、明治五年の「学制」は学校を設置する単位として学区制を採用した。その際、埼玉県は東京府や神奈川県などとともに第一大学区に所属した。しかし、中学区以下の区分について「学制」は、「地方官其土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計り便宜(べんぎ)ヲ以テ郡区村市等ニヨリ之ヲ区分スヘシ」(第七章)とし、具体的区分規定を示さなかったので、各県における中学区以下の学区の設定は容易に進まなかった。そこで文部省は明治六年(一八七三)二月、「人口大約十三万人ヲ以テ一中学区ノ目的トシ人口大約六百人ヲ以テ一小学区ノ目的トスル」との目安を示し、これにより各府県に小・中学区の設定を行わせた。各府県における学区設定の作業は、以後それを標準として本格的に開始されることとなった。
旧埼玉県における学区の設定をみると、それへの着手は早く、すでに明治五年(一八七二)十月行政区を単位として管内を三中学区に区分した。すなわち第一中学区は第一区~第八区、第二中学区は第九区から第一七区、第三中学区は第一八区~第二四区とした。そしてその四か月後の翌六年二月、大学区内で中学区の通し番号が打たれ、第一中学区は第一二番中学区に、第二中学区は第一三番中学区に、第三中学区は第一一番中学区となった。小学区については、「学制」の規定どおり一中学区内をニ一〇小学区に区分した。その後、千葉県及び東京府との間に管地の一部移動があり、結局、旧埼玉県の学区は三中学区六五一小学区に編成された。現北本市域は一般行政区では第一七区(足立郡宮内村・東間村・深井村・古市場村・常光別所村・高尾村・荒井村・原馬室村・滝馬室村の各村)と第一八区(足立郡石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・本宿村・上日出谷村・山中村・上中丸村・下中丸村・花ノ木村の各村)に所属したから、学区も前者が第一三番中学区、後者が一一番中学区に配属した。第一三番中学区に属した第一七区は三〇小学区(第一八一~第二一〇番)に分けられ、宮内学校は一九一番、高尾学校は第一九六番であった。第一一番中学区に属した第一八区は四一小学区(第一七〇~第ニ一〇番)に分けられ、中丸学校は第一九一番、石戸学校は二一〇番であった。それら四校を表示すれば表18のとおりである。
表18 学制期の小学校
学区番号
学校名
創立教員生 徒校 舎通学区域(村名)
11—191
中丸学校
明治
6
37629遍照寺上中丸村・下中丸村・山中 村.(僚津村)
11—210
石戸学校
638720大蔵寺石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・本宿村・(上日 出谷村)
13—191
宮内学校
637433常福寺宮内村・東間村・深井村・ 古市場村・常光別所村.花 野木村
13—196
高尾学校
6512817泉蔵院高尾村・荒井村(原馬室 村・滝馬室村)

(注)教員及び生徒数は『文部省第四年報』(明治9年)通学区域は『武蔵国郡村誌』により作成。( )内は市域買いを示す。

この表18をみると、四校すべてが明治六年(一八七三)に寺院を借用して創設されている。近代学校としての小学校は木の香りの漂う新築校舎において誕生したのではなく、うす暗い古寺を教場として産声(うぶごえ)をあげた。これは北本市域にみる特殊現象ではなく、全県的・全国的に相共通した一般的傾向であった。さらに注目されることは、四校中三校が寺子屋を母体として誕生していることである。すなわち、中丸学校が置かれた遍照寺には、幕末維新期に星吉隆證和尚が寺子屋を開業し、寺子に読み書きなどの手習いを教授していた。彼は、「学制」の実施に際して遍照寺を中丸学校として提供し、みずから中丸学校の教師となった(『中丸小学校八〇年史』Pニ一)。

写真10 宮内学校が設けられた常福寺

宮内(中丸小学校提供)

常福寺に設けられた宮内学校は、神官師匠の滝沢海三によるところが大きい。すなわち、彼は氷川神社の神官職のかたわら私塾を開き、近隣の子弟に主に漢学・算術を授け、地域の教育的向上に寄与していた。「学制」の実施に際して小学校の新設を無理とみた当該学区では、滝沢師匠を小学校の教師とし、常福寺を教場として開校した(『中丸小学校八〇年史』Pニ一)。高尾学校も、その母体は寺子屋であって、俗に泉蔵院学校と呼ばれる。泉蔵院の寺子屋は、明治初年に廃寺であった同院の建物を利用し、師匠に島田其十郎(原馬室村)を招いて近隣の子弟に読み書きを教えたことに始まる。が、高尾学校はその寺子屋の看板を塗り変えたものであり、教師も寺子屋師匠から引き続き島田其十郎が当たった(『石戸小学校六〇年史』P四四)。このようにみてくると、近代教育を推進する基盤としての小学校が寺子屋・私塾などを母体として成立している様子が明瞭に知られる。寺子屋・私塾と近代学校とは理念の上では違いがあるものの、移行の実態においては大いに連統性が認められ、読み書き算盤(そろばん)の実用的内容構成とその教育の全庶民層への普及は、近代学校を育(はぐく)む地盤の開拓を促すと同時に、近代学校への移行を容易にした。こうした意味において、寺子屋・私塾は近代教育成立史の上からも注目すべきものであって、その歴史的意義は大きい。
なお、当時の小学校は人口およそ六〇〇人を目途に区切られた小学区を基礎にして設置されるのが「きまり」であったが、実際には表18が示すように、数か村が連合して一小学校を設置した。

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