北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第1節 地方制度の変遷
3 地方三新法の成立と旧郡・町村の復活
三新法公布の意義と戸長選挙地方行財政の急速な中央集権化を目的として、明治五年(一八七二)から実施してきた大区小区制は、徴税や徴兵において過酷(かこく)な側面が強く、地域住民の反発を受けた。そこで、時の藩閥(はんばつ)政府の中心人物大久保利通は、地方政治に関することをすべて中央政府の権限におさめたのは誤りであるとし、地方に一定の独立権限を与える(おおくぼとしみち)「地方三体制等改正之儀上申」を三条実美(さんじょうさねとみ)に提出した。また、木戸孝允も地租改正に伴う一連の農民騒擾(そうじょう)を重視し、地租改正を緩和(かんわ)するとともに中央と地方の会計を別にして、地方財政は町村会を開いて住民の協議にまかせるべきとする意見書を政府に提出した。そこで明治政府は、同十一年七月二十二日、地域住民の地方政治参加を部分的に認めた「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」のいわゆる地方三新法を制定し、近代的地方自治制度の確立をはかった。
図3 旧郡別地図
(『戸田市史通史編下』P83より作成)
埼玉県では具体的な改革として、まず第一に、明治十一年十月「郡区町村編制法」に基づいて大区小区制を廃し、郡・町村制を復活して、管下一八郡を分合して新郡役所を設けた。これによって埼玉県内には九郡役所が設置され、市域の村々は同年三月二十五日新設の北足立郡内に編入された。図3に見られるように北足立郡は郡域の狭い新座(にいざ)郡と合わせて浦和宿に郡役所が置かれ、玉蔵院(ぎょくぞういん)に仮役所を開設した(『県史通史編五』P二九六)。初代北足立・新座郡長平野政信は、正副区長に同二十五日から事務を取扱う旨を通逹した。表8は歴代郡長の一覧である。
表8 歴代北足立郡長一覧
氏 名 | 前 官 職 | 任 官 年 月 | |
---|---|---|---|
初 代 | 平野 政信 | 埼玉県権大属 | 明治12・3 ・17 |
2 代 | 宮内 公美 | 埼玉県属 | 明治12・12・17 |
3 代 | 天野 三郎 | 北足立新座郡書記 | 明治13・11・6 |
4 代 | 長谷川 敬介 | 北埼玉郡長 | 明治18・4・9 |
5 代 | 小泉 宽則 | 埼玉県属 | 明治19・7・25 |
6 代 | 加藤 炳 | 埼玉県属 | 明治27・7・4 |
7 代 | 平井 光長 | 入間郡長 | 明治30・8・2 |
8 代 | 石井 晋一 | 千葉県山武郡長 | 明治 30・9・13 |
9 代 | 早川 光蔵 | 北葛飾郡長 | 明治30・12・22 |
10 代 | 石井 半左衛門 | 埼玉県理事官 | 大正4・1・18 |
11 代 | 市川 春太郎 | 大里郡長 | 大正10・6・23 |
12 代 | 武田 熊蔵 | 大里郡長 | 大正12・1・30 |
(『浦和市史通史編Ⅲ』P55より引用)6代以降は、郡制施行以後
写真5 荒井村戸長 矢部長作
(市史編さん室蔵)
また、明治十一年(一八七八)八月二十六日、内務省達によって「戸長選挙規則」が公布され、戸長選出は三年ごとに町村住民(戸主で地租納入若)の公選によることとし、その当選者を県令が任命する方式に改められた。さらに同十二年四月には、町村吏員配置法が布告されて、これまでの旧村役人的正?副戸長及び正?副区長、区ごとに置かれた水理掛、堤防取締、学区取締、区務取締等が廃止され、町村ごとに町村吏員として戸長一名(人口寡少(かんしょう)村は数村で)と副戸長、それに補助者として筆生(ひっせい)が置かれることになった。
この郡区町村編制法になる戸長は、選挙で選ばれることになっており、同年四月に布達された戸長選挙規則によると被選挙権は満二〇歳以上の男子で、組合内若しくは町村内に居住して本籍のある者で地租を納入する者と規定されていた。選挙権は男子戸主で、同じく同地域に居住、本籍のある地租納入者であった。戸長の任期は三年で、戸長選挙が終わると、上位三名を郡役所に具申し、郡役所はこれらの者が適任であるか否かを調査、判定して決定した。しかし、正式には郡長から県令に具申されて決定するため戸長選挙は一部官選を加味したものであった。
こうして、同年七月戸長選挙が行われたが、荒井村、東間村、宮内村の場合は、選挙の結果は次のとおりであった。
戸長撰挙状
北足立郡荒井村
第弐拾七番地平民
九十弐枚 矢部平兵衛 四十一年四カ月
同村同人長男
拾壱枚 矢部長作 弐十弐年十カ月
同村四拾壱番地平民
壱枚 新井庄三郎 四拾九年三カ月
右荒井村戸長ノ撰挙
北足立郡宮内村
第五十六番地平民
六十枚 松村源兵衛 五十年六カ月
同郡東間村四十五番地平民
四十七枚 松崎友右衛門 五十二年七カ月
同郡宮内村六番地平民
四枚 大島周吾 四十五年五カ月
右東間村・宮内村戸長ノ撰挙
北足立郡荒井村
第弐拾七番地平民
九十弐枚 矢部平兵衛 四十一年四カ月
同村同人長男
拾壱枚 矢部長作 弐十弐年十カ月
同村四拾壱番地平民
壱枚 新井庄三郎 四拾九年三カ月
右荒井村戸長ノ撰挙
北足立郡宮内村
第五十六番地平民
六十枚 松村源兵衛 五十年六カ月
同郡東間村四十五番地平民
四十七枚 松崎友右衛門 五十二年七カ月
同郡宮内村六番地平民
四枚 大島周吾 四十五年五カ月
右東間村・宮内村戸長ノ撰挙
(『市史近代』№二二より引用)
荒井村では、同村の富農矢部平兵衛(四ニ歳)が九二枚を獲得して第一位となり、第二位は同人長男の長作(二三歳)一一枚、第三位は選挙の人民総代を勤めた旧副戸長新井庄三郎(五〇歳)の一枚であった。
ところが、一位の矢部平兵衛は「平素病身にて難渋罷在候間、右戸長当撰ノ儀御免被成下度」と辞退願を出した。そこで総代の新井庄三郎は、次の願書を白根県令宛提出し、長男の第二位である矢部長作に認定されるよう願い出ている。
戸長撰挙ノ儀ニ付奉願上候
北足立郡荒井邨人民総代旧戸長(ママ)新井庄三郎奉申上候、本県甲第四拾四号御達ニ基、戸長公撰投票執行候処、弐拾
七番地矢部平兵衛儀高札ニ相成候跡、同人八平素病身ノモノニ付達テ引退致し候間、御布達第拾五条但し書ニ依
リ、第二番矢部長作江落札ニ相成候様御詮儀ノ程奉願上候、以上
本県下
北足立郡荒井村
旧副戸長 新井庄三郎
明治十二年七月廿三日
埼玉県令 白根多助殿
北足立郡荒井邨人民総代旧戸長(ママ)新井庄三郎奉申上候、本県甲第四拾四号御達ニ基、戸長公撰投票執行候処、弐拾
七番地矢部平兵衛儀高札ニ相成候跡、同人八平素病身ノモノニ付達テ引退致し候間、御布達第拾五条但し書ニ依
リ、第二番矢部長作江落札ニ相成候様御詮儀ノ程奉願上候、以上
本県下
北足立郡荒井村
旧副戸長 新井庄三郎
明治十二年七月廿三日
埼玉県令 白根多助殿
(『市史近代』№二二より引用)
通常は、最高得票者がそのまま戸長に任命されていたが、荒井村のように辞退者または辞任する例も多くみられる。いずれも病気を理由としているが、当時の戸長の事務負担の大きさ故に、有力者が敬遠したものと考えられる。同様に東間村・宮内村の連合村の戸長選挙の結果も報告されているが、北本市域の戸長は、表9(県行政文書 明九二三、九二四「北足立郡町村名役場位置戸長姓名任免月日」による)のとおりで、戸長役場は戸長宅を利用することが多く二か村以上で戸長役場組合を置くところもあった。
表9 明治12年役場組合戸数及び戸長一覧
村 名 | 戸 数 | 戸 長 名 | 備 考 | |
---|---|---|---|---|
村 | 組合 | |||
石戸村 | 戸 147 | 戸 147 | 鈴木善右エ門 (明9.1.1戸長名簿) | |
北中丸村 | 126 | 213 | 二村が組合となっている。戸長なし。 副戸長6名 | |
山中村 | 16 | |||
古市場村 | 25 | 長谷川宰助(明.9.2.2戸長名簿) | ||
別所村 | 33 | |||
花ノ木村 | 13 | |||
下石戸下村 | 77 | 77 | 五味定右エ門 (明.9.1.1戸長名簿) | 明9.1.1この三村と上日出谷村を併せ四村が組合となっている。戸長は、五味氏と吉田氏となっている。 |
北本宿村 | 42 | 42 | 副戸長有 | |
下石戸上村 | 84 | 84 | 吉田徳太郎 (明9.1.1戸長名簿) | |
荒井村 | 114 | 114 | 矢部長作 (明9.2.2戸長名簿) | |
高尾村 | 182 | 182 | 田島昌治 (明9.2.2戸長名簿) | |
上生出塚村 | 57 | 143 | 淸水述之助 (明9.2. 2戸長名薄) | 深井村と上・下生出塚 村の分離は明治14. 3. 11となっている。 |
下生出塚村 | 22 | |||
深井村 | 64 | |||
宮内村 | 64 | 124 | 松村源兵衛 (明9.2.2戸長名簿) | |
東間村 | 60 | |||
常光村 | 117 | 117 | 河野茂三郎 (明9.2. 2戸長名簿) |
(県行政文書 明923・924より作成)
写真6 宮内村・東間村戸長を努めた松村家の長屋門
宮内
明治十三年(一八八〇)四月に郡区町村編制法が改正され、町村の戸長役場の組合せも一部改変された(『県史通史編五』P二九五)。このため上生出塚(かみおいねづか)・下生出塚(しもおいねづか)・深井村三か村戸長役場組合は、翌十四三月、深井村が「不便」を理由に、分離している。その結果、深井村六〇戸は三か村組合から分離独立の戸長組合を形成することになった。しかし、新しい戸長役場組合の多くは、二~四か村で組合を形成し、民費負担の軽減を図っていた。
第二に、「地方税制規則」(『県史通史編五』P三〇〇)により、従来の府県税・民費等の諸税が新たに地方税に統合され、町村だけの費用は町村民の協議費として地方税から分離された。この結果、協議費は、地価・反別・営業・戸別割に賦課され、戸長役場費用として徴収されることになった。
第三に、「府県会規則」(『県史通史編五』P三〇五)により、それまで各府研県によってまちまちであった地方民会・区長会に代わって、初めて公選制に基づく府県議会が開設された。すでに開設されていた町村会も、明治十三年四月の区町村会法の制定によって、従来の村寄合から分離され、公的代議機関として設置された。埼玉県では、それに先立って明治政府の指示で同十二年九月十日、全文四章三三か条からなる「町村会規則」を布達(ふたつ)した(『県史通史編五』P三二二)。その内容は、第一章の総則で町村会の主な議決事項を定めたもので、⑴町村限りの経費で支弁できる事業を起廃(きはい)し、伸縮すること、⑵町村の共有財産の管理と運営に関すること、⑶土地・金穀・家屋などの借り入れに関すること、⑷税額の徴収と賦課法に関すること等が規定された。また、第二章では、町村会議員の選出人数を定めており、町村会議員の資格は、満二〇歳以上の男子で、町村内に本籍及ぴ居住を定め、土地を所有している者で、被選挙人資格は、満二〇歳以上の地租を納める男子と規定された。明治政府のこの一連の改革は、明治七年(一八七四)一月の板垣退助ら愛国公党の民選議院設立の建白書提出を契機とする自由民権運動の高揚に対処するために行われたもので、地方の有力者の政治参加を認め、彼らを地方支配体制の末端に組み入れることで反政府の鉾先(ほこさき)を変えるねらいをもった政策であったが、結果的には皮肉にも反政府勢力の動きを強めることになった。