北本市史 通史編 近代
第2章 地方体制の確立と地域社会
第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開
3 日清戦争と日露戦争
日清戦争と町村明治政府の朝鮮に対する政策は、明治八年(一八七五)五月の日本軍艦の挑発的(ちょうはつてき))行為による江華島(こうかとう)事件を契機として具体化されていく。政府は翌年二月二十六日、日朝修好条規を結び、日本が欧米に強(し)いられた以上に過酷(かこく)な不平等条約を朝鮮に押しつけて開国させ、欧米列強もこれを支持した。その結果、それまで朝鮮を属国としていた清国(先の条約では朝鮮と清国の宗属関係を否認)と日本は朝鮮をめぐって対立を深め、以後明治政府はこれに対処するため軍備拡張をはかるのである。開国した朝鮮へは、日本の経済的・政治的進出が進み、それまでの保守的な大院君(だいいんくん)(国王の実父)に代わって、閔妃(びんび)(国王の夫人)一族が政権を握り、日本の援助を得て開明的な政策を進めていたが、日本式新軍制採用をめぐって同十五年に旧式軍隊の反乱をまねいた。この壬午軍乱(じんごぐんらん)(壬午事変)を機に、閔妃政権は保守的な姿勢に転じ、清国への依存を深めると、この事大(じだい)党(大国清に事(つか)えるの意)政権に反対する開明派の金玉均(きんぎょくきん)、朴泳孝(ぼくえいこう)ら独立党は、同十七年、漢城の日本公使館の支援でクーデターを起こしたが、清国軍の介入で失敗した。これが甲申(こうしん)事変である。甲申事変後の翌十八年四月、清国天津で日本側伊藤博文、清国側李鴻章(りこうしょう)との間で、今後の出兵に際しては事前通告を行う(第三条)との条項をもり込んだ天津条約が締結(ていけつ)された。これが、同二十七年六月の日本軍の朝鮮出兵の法的根拠となり、新たな火種をはらむものとなった。
甲申事変後の明治二十二年十二月七日の第一議会で、山縣有朋首相は国防は主権線(国境)を守るだけでは不十分で、利益線(勢力圏)も守らねばならないとして、朝鮮の覇権(はけん)を清国と争うための軍拡を合理化する演説を行った。政府が初期議会で超然主義を唱え、軍艦建造費の予算通過に固執(こしつ)して「民力休養」を主張する民党と激しく対立したのも、清国北洋艦隊と対抗する海軍力を保有するためであった。同二十七年三月に勃発(ぼっぱつ)した東学党の農民反乱は、日本政府に絶好の口実を与えた。日本はまず公使館、領事館及び居留民(きょりゅうみん)の保護を名目に出兵し、さらに失脚していた大院君を擁(よう)して朝鮮の内政改革を行うことを宣言した。これに対して清国も、日本の派兵通告を受けて朝鮮に派兵し、従来の宗主権(そうしゅけん)を主張して両国軍が対峠(たいじ)し、ついに同年七月二十五日、日本海軍は清国海軍に攻撃を開始し、陸軍も七月二十九日成歓(せいかん)、牙山(がざん)で淸国軍を敗退させ、戦闘は全面的に展開され、日淸戦争が勃発した。
八月一日に宣戦布告した日本は、派兵のための軍隊編成に着手、埼玉県は近衛師団及び第一師団に所属し、第一回の在郷軍人召集を七月二十四日に実施、その後、明治二十八年(一八九五)七月までに三十五回の動員令を出し、陸軍応召者総数は三九六八人(『県史通史編五』P七四二)に及んだ。海軍も四人おり、日淸戦争における埼玉県の応召者は、全員で三九七二人であり、その郡別内訳は表39のとおりである。同二十七年の町村数でみれば、一町村当たり十人である。埼玉県からの出征兵士は、第一師団の第二軍司令官大山厳(いわお)の指揮に従い、十月二十四日遼東半島の花園(かえん)口に上陸、戦闘に参加した。
表39 日清戦争応召者
郡 名 | 陸 軍 | 海軍 |
---|---|---|
人 | 人 | |
北足立・新座 | 624 | 1 |
入間・高麗 | 638 | — |
比企・横見 | 336 | 1 |
秩 父 | 371 | — |
児玉・賀美・那珂 | 169 | 1 |
大里・幡羅・榛沢・男衾 | 396 | —— |
北 埼 玉 | 571 | — |
南 埼 玉 | 482 | —— |
北・中葛飾 | 381 | 1 |
合 計 | 3,968 | 4 |
(『県史通史編5』P743より引用)
出征兵士への対応は、当初は県下の足並みがそろっていなかったので、この日清戦争を契機(けいき)として「国の守りは町村の守り」とおきかえられ、村落を代表する出征として、銃後の家族の扶助(ふじょ)、慰問(いもん)、戦死者の弔祭などはすべて県に報告され、県に各郡に最大の対応をするよう明治二十七年九月八日、各郡長に内訓を発した。その中で、応召者が後顧(こうこ)の憂(うれ)いなきよう、報国の義務を励(はげ)ましむるよう指示している。その結果、県内町村四〇二のうち、一七一町村で救護法を設け、醵集(きょしゅう)金を行い、家族救護や慰問に当て、その内容は「県報」を通じて県下全域に周知されたが、一家の働き手を召集された家族にとっては、極端に少ないもので、大きな犠牲(ぎせい)を払わざるを得なかった。
明治二十七年(一八九四)八月から十一月までの北足立郡の『従軍者家族扶助及慰問調書』をみると、郡内の応召軍人戸数は四七七戸で、内六十九戸が扶助の必要のない家庭であった(県行政文書 明八六三)。浦和町では、町会がニ名の召集者家族に、それぞれ月額二円、一円の救助費支給を決めており(『浦和市史通史編Ⅲ』p一三一)、実際は相当数の家庭で町村の扶助を受けていたと考えられる。また、満期帰郷兵には、現役中の服務に応じて三等級の評価で慰労金が十円から三十円程度贈与された。この慰労金は、郡によって「義援金(ぎえんきん)及賦金(ふきん)」とか「醵金(きょきん)及特志者ノ義捐金」等と呼ばれていたが、同十九年から二十年にかけて、各郡ごとに召集者留守家族の扶助と支援のために設立された徴兵慰労義会が、国民兵役義務者の戸主から徴収した基金から支出された。これに対じて、後備・予備兵の軍人援護は不備であったが、北足立・新座郡は、兵事義会という任意加入の組織を設立した。発起人は天野三郎、賛助員は大島寛爾(おおしまかんじ)、星野平兵衛(へいべえ)、高橋安爾(たかはしあんじ)、永田荘作(ながたしょうさく)で、いずれも衆議院議員や県会議員を経験した、自由党や立憲改進党の有力者であり、その目的は、「北足立・新座両郡後備予備兵征清従軍者家族ヲ扶助スル」ことであって、戦意昂揚(こうよう)の側面をもっていた。この組織は日淸戦争後に解散した。
戦況は、日本軍が朝鮮南部の清国軍を撃退すると、明治二十七年八月下旬には北上を開始し、九月十六日平壌を占領した。翌十七日、日本艦隊は黄海海戦に勝利し、朝鮮西方の制海権を獲得して、その後の戦闘を有利に導いた。その結果、十月二十四日には埼玉県出身の出征兵士のいる第一師団第二軍は遼東(りょうとう)半島に上陸、金州・旅順・大連を占領、翌二十八年二月には山東省の威海衛(いかいえい)にあった清国北洋艦隊の基地を攻撃し、清国艦隊を降伏させるとともに威海衛を占領した。こうして日本軍の戦況が終始有利に推移すると、列国は相次いで講和を勧告、これに応じた日清両国は同年三月、下関において講和会議を開き、同年四月十七日、下関条約が調印されて、日清戦争は終結した。
その結果、清国は朝鮮・の独立、遼東半島・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の日本への割譲(かつじょう)を認め、我国は賠償金として庫平銀(こへいぎん)二億両(テール)(当時の邦貨で約三億一〇〇〇万円)を獲得した。しかし中国東北部への進出をねらうロシアを中心としたフランス、ドイツの三国干渉によって、遼東半島は返還された。しかし、日本は戦争の目的であった朝鮮からの清国の影響力排除に成功したうえ、新領土や戦費を一億円も上回る賠償金を手に入れ、好意的中立の態度をとっていたイギリスなどに長江流域の市場を提供するという成果まであげた。特に、植民地や賠償金の獲得は、海外市場と金本位制(きんほんいせい)の確立という点から、その後の我国資本主義発展の基盤となった。
この戦争で外地に出動した日本軍の総兵力は十七万、その被害は、のちの台湾占領を含め死者一万七〇四一人、内戦病死者は一万一八九四人であった。近代戦とはいえ、まだ重火器が十分発達していなかったため、戦死者は少なかったが、埼玉県からは三九七二名が参戦し、戦死・戦病死者は合計で二五九人、この内北足立郡は四十人、市域からは三名応召され、一名が戦死した(表忠碑)。
「県報」に戦死者が掲<されるのは明治二十八年(一八九五)十一月からで、金州城戦死者を最初に、旅順(りょじゅん)、水師営(すいしえい)(旅大市)、花園口での戦死者が告示され、いずれも町・村葬として、町村長や町村会議員、知事代理、郡長及び警察署長、県会議員、学校職員、児童生徒らが参列して、盛大に営まれ、国家のための殉死者(じゅんししゃ)として、また郷土の代表の遭難として公的儀式として行われた。兵士の復員も同年六月九日から始まり、十二月中ばには終了し、解散した。