北本市史 通史編 近代
第2章 地方体制の確立と地域社会
第2節 農事改良と農業の振興
1 農業団体の結成
農会の設立と産業組合の設立近代日本の農村社会において、農業諸団体の果たした役割はきわめて大きい。その代表的なものとして農会と産業組合があげられる。
特に明治後期の日本は、日淸・日露戦争を経験し、食量を増産するためには、農業生産力を増大させる必要があった。また、資本主義発達期における地主制の進展も影響をおよぼし、農業に関係する法律がこの時期に次々と公布された。その代表的なものとして、明治三十二年(一八九九)の耕地整理法、農会法、同三十三年の産業組合法などがある。
農会は、農事改良や農業技術の指導・奨励をすることにより、農政を農民に浸透させることを目的とする組織であった。そもそも農会は、明治初期に農事改良のために存在していた農談会に始まるとされている。この農談会は、地主主導で設けられたものであり、農会は、それを永続的な団体として発展普及したものとみられる。
埼玉県は、明治二十八年に県令十八号として農会設置準則を公布した。それによると、第二条で「農会ハ町村農会、郡農会、県農会ノ三種」として、その区別を明らかにし、また、第十三条では「農会ノ規約ハ県知事ノ認可ヲ受クヘシ」としている。このことは農会が県行政によって次第に系統的に組織化されていったことを示唆している。また、第八条には、町村農会の会務として、農事談話会の開催、農産物品評会の開催、種苗交換・売買、勤勉貯蓄、森林繁殖・保護、霜害予防、獣疫予防・害虫駆除、肥料共同購入等があげられ、ほかに上級農会報告を会員に知らせることや上級農会に対して農事統計その他を報告することなどをあげている。これによって県は、農事改良の徹底のほかに、町村レベルにまで農政が行き届くように町村農会の設立を促していたことがわかる。
町村農会は、明治三十年(一八九七)十二月には二三六の町村で設立されており、その数は県下三七五か町村中の約三分の二に達した。
郡農会は三十年に北埼玉・比企・大里・児玉・北葛飾の五郡で設立され、翌三十一年には残る南埼玉・入間・秩父・北足立の四郡にも設立され、九郡すべての地区で設立された。
このことをうけて、同年五月県農会が設立された。その県農会は、農会未設置町村に対する農事談話会の開催、農事講習会等の開催、稲模範作共進会の開催、耕地整理の奨励、堆積肥料改良の奨励などに積極的に取り組み、次第に事業を広げていった。
全国的にみても、このころまでに道府県農会は設立されており、このような状況を背景に政府は同三十二年六月に農会法を公布した。
また、町村農会の残る三分の二もこの農会法公布以後に設立されており、北本市域の石戸村・中丸村の農会設立もちょうどこのころであった。
その後同四十三年には、政府の農業政策体系再整備の一環として、産業組合中央会設置・耕地整理法の改正とともに農会法が改正され、農会の全国的中央機関として帝国農会が設置された。ここに帝国農会を頂点とする系統的な農会組織が形成された。
このような農会の全国的組織化とともに、道府県農事試験場も設立され、国立農事試験場を頂点とする系統的な農事試験場体制も確立した。県内でも農事試験場及び農業学校設立の動きがみられ、農会同様に農事改良の中心的機関として期待された。そこでは近代農学の専門的な教育を受けた農業技師が、従来農事指導の中核であった老農にとって変わり、各級の農会において指導に当たった。
ここに、近代農学の応用的作業を農事試験場が担い、末端の農家への普及・指導を農会が担い、その下地としての農家の環境づくりを産業組合が担うという職能分担体制が成立した。
明治三十三年(一九〇〇)産業組合法が公布された。これは自主的におこりつつあった協同組合組織の動きに対応して、農村内に金融組織・経営組織を形成しようとしたものであった。
表42 明治末年の産業組合概況
設立年度 | 設立数 | 設立年度 | 設立数 | 股立年度 | 設立数 | 設立年度 | 設立数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
34 | 3 | 35 | 4 | 36 | 32 | 37 | 26 |
38 | 7 | 39 | 24 | 40 | 33 | 41 | 27 |
42 | 31 | 43 | 84 | 44 | 41 | 45 | 10 |
※43年については碓氷社、甘楽社が一時に新設したために84という数字になっている。45年は4月までの数字
(『県史資料編21』№102より引用)
産業組合は、その業務として、「組合員に対する産業資金の貸付、組合員からの貯金受け入れ、生産物の販売、産業用あるいは生活用品の購買」などの経済活動を行い、その形態は、信用・販売・購買・生産(のち利用)の四種であったが、「明治三十年代に組織されたものは大部分が信用組合で、明治四十年代から兼営の形が増えていった。」(『県史通史編五』P八四三)という状況であった。このことは、まさに日本の産業組合が上から作られたものであることの表れである。政府は、四十二年以降、政府資金の産業組合への貸付や産業組合法の改正等により、さらに組織化を進めていった。
各府県連合会設立に対応して、明治三十八年に中央団体として大日本産業組合中央会が設立された。同四十二年には産業組合中央会と改称し、全国的な組織として活動を始めた。
大正期にはいると、米騒動を経験した政府は、小作争議が激化する中で農業倉庫法や米穀法等を公布して、米の全国市場を形成・維持するために流通機構の整備を図ろうとした。そうした中で販売組合は重要な役割を演じることになった。
大正末から昭和にかけて、多くの全国連合会が結成された。産業組合中央金庫、全国購買組合連合会、全国米穀販売組合連合会などが設立され、ここに産業組合の全国化が達成されたわけである。また、このころには組合員の組織率の向上が図られ、地主・自作・自小作・小作など全階層が組合に入る産業組合の「全層組合」化が積極的に展開された。
順調に事業規模を広げていた産業組合も昭和大恐慌により、大きな痛手を被った。昭和大恐慌後は、不況対策として、昭和七年の農山漁村経済更生運動の展開に呼応して、産業組合拡充五か年計画(昭和八~十二年)、第二次産業組合拡充三か年計画(昭和十三~十五年)が実施され、未設置町村の解消、全戸加入、四種兼営、系統利用の促進など積極的な展開がみられた。
このことにより、事業規模も飛躍的に増大したが、戦時統制経済の強化される中、昭和十八年の農業団体法により、産業組合は農業会に転化し、政府の戦時統制機関となりその使命を終えた。