北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第2節 農事改良と農業の振興

2 荒川の舟運業

舟運の状況
東京の北に位置する埼玉県は、江戸時代においては、「江戸地回り経済圏」として、江戸の台所を支えてきた。江戸を中心に放射線状に広がる川の存在は、さながら現在の物流ネットワークのようなものであった。
荒川や利根川は、いくつもの支流をもつことにより、より多くのものを確実に運ぶことのできるシステムになっていた。
近代化をめざした明治新政府にとっても、依然、舟運は重要な輸送手段であった。しかし、もともと舟運は個人経営的なものが多く、当初は、旧幕府時代の慣習から抜けでることができなかった。
明治七年(一八七四)二月には、船税規則が制定され、川船税の全国的統一がはかられた。また、税の取扱いは、「旧来の運上金は国の雜税となっていたが、埼玉県では、明治八年二月雜税が廃止となり、このとき河岸場税、船積稼免許税などは県限りの営業税(賦金)となった(明治十一年七月新税法のもとでは、県税のうち雑種税に移行)。」(『荒川人文Ⅱ』荒川綢査報告書三P一七六)というようにめまぐるしく変わった。
舟運業を営むものの中にも、もともと政府の勧奨によってつくられた陸連業会社である「陸運元会社」に加入するものもみられ、船積問屋からの脱皮をはかろうとしたものもあった。近代化をめざす新政府にとって、中央集権的な国家機構を形成するためには、運輸面においても、全国的な運輸機構を確立することが必要であり、運輸流通網の整備・拡充が企図されていた。そのため、河川や湖沼(こしょう)での舟運にも目がつけられたのである。
こうして殖産興業の方針のもと封建的な問屋株・船年貢・役銀の廃止をはじめとして、舟運機構は近代化されていった(前掲書)。

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