北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第4節 地域の生活・文化の動向

1 地方組織の整備

衛生対策
明治初期の衛生行政は文部省の管轄であったが、明治八年内務省に移され「府県ニ衛生事務担当ノ吏員ヲ置ク」こととなった。そして同十一年五月、内務省は各府県に対し「衛生事務取扱之儀自今担当吏員ヲ選定セシムへキ」旨を通達した。このように明治十年ごろまでは、政府においても伝染病予防等に関するこれといった規則もなく、したがって予防施設も少なかった。伝染病予防が叫ばれるようになったのはコレラ・痘瘡(とうそう)が大流行したことがきっかけとなった。また、赤痢・腸チフス・ジフテリア・発疹(はっしん)チフスを法定伝染病として防疫対策が立てられた。とくに痘瘡の防疫については、明治九年天然痘(てんねんとう)予防規則を定めて強制種痘の制度を設け、生後一年以内一回、生後一年以後五~七年の間隔で二回受けることを定めた。しかし痘瘡は全国的に流行し、特に明治十八~二十年、二十五~二十七年、さらに同二十九・三十年及び三十二年、四十一年に大流行した。

写真77 石戸村天然痘発生の詳報

明治32年(『埼玉新聞』より引用)

市域の状況を詳しくは知り得ないが、明治四十一年(一九〇八)の大流行の時は、石戸村でも天然痘が発生した(近代NO.二八九)。
感染者の届け出があると、村長は急拠(きゅうきょ)鴻巣分署と北足立郡役所に報告し、郡役所と分署から係員が派遣されて患者を同村の隔離病舎に移し、消毒と村民の種痘励行に着手した。この時、村では種痘の手配をしていたが間にあわず、急いで県から痘苗(とうびょう)を用意し徹夜で種痘をした。また翌日から村内三か所に種痘所を設置し、三日間で全村三五〇〇有余人の接種を行った。
また、コレラについてもその防疫(ぼうえき)対策に力を入れた。周知のとおりコレラは死亡率も高く、悪性のものは発病後わずか数時間で死亡するため、別名「コロリ」ともよばれて恐れられた。県内では、明治十二年と十九年に大流行したが、それ以後もしばしば流行した。さらに腸チフスも、同二十三年から明治末期にかけて、北足立郡をはじめ全県下に猛威をふるった。中丸村・石戸村もその例外でなく、明治末期には、赤痢・チフス・猖紅熱(しょうこうねつ)などの伝染病が相次いだ。
そこで、政府はこれまでの予防規則を根本的に改正して、明治三十年(一八九七)三月に改めて伝染病予防規則を定め、防疫対策に積極的に乗り出した。同法では、市町村に伝染病予防委員、府県に検疫委員をおくこととした。また各級機関・医師及び個人の責任分担とその費用の負担を明らかにした。特に、この規則では避(ひ)病院(隔離(かくり)病舎)の設置が義務づけられた。これら各種伝染病の流行により、各町村に衛生組合が設置され、衛生思想の改善や衛生思想の啓発が行われ、春秋二回の清潔法の励行、飲料水の水質検査、講話会などが開催され、次第に衛生への関心が高まった。

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