北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

2 自由民権運動と北本

府県制・郡制の施行
政府は明治二十三年の国会開設による立憲政治体制への移行に向けて、地方制度の改革を推進し、まず同二十二年四月、従来の三新法体制に変えて「市制町村制」を実施したが、同時に、府県制及び郡制の改正準備も進めた。
その結果、「府県制」及び「郡制」は、明治二十三年五月十七日、それぞれ法律第三十五号、三十六号として公布され、ここに「市制町村制」を基盤とした近代的地方制度が体系的に整備された。
「府県制」は全部で六章九十八条の条文からなり、その特色は第一に府県に財政能力として起債(きさい)を認め、府県の法人的性格を強めたことである。第二に、市会及び市参事会・郡会及び郡参事会の議員(その三分の二は町村会議員によって選挙される)によって府県会議員を選挙するという間接選挙制(複選制(ふくせんせい))がとられ、被選挙権者は直接国税十円以上の納付者という名望家(めいぼうか)中心の構成となり、これによって府県会は「住民の階層的参加」と評された。第三に、従来の常置委員という副議決機関にかわって、府県参事会が新設され、府県参事会および府県知事の専決処分(せんけつしょぶん)が認められたことである。府県参事会は、府県知事、高等官二名、名誉職参事会員(府は八名、県は四名)と県会議員の互選者により構成され、議長は知事がなり、府県会の権限に属する事項を委任議決した。その後、明治三十二年(一八九九)の大改正で「複選制ハ延(ひ)イテ市町会議員ノ競争ヲ激烈(げきれつ)ナラシメ地方自治ノ発達ヲ阻害(そがい)スル為」として廃止され、直接国税三円以上納付者による直接選挙制に改められた。いずれにせよ府県会は地方制度において官僚支配を強化するものであり、上から制度的に「作られた」地方自治にすぎなかったといえる。
「郡制」は先述のように六章九十一条からなり、従来郡区町村編制法で行政区とされていた郡を、府県と町村との中間の地方公共団体としたことが大きな改正点であった。そのための執行機関として郡長を、議決機関として郡会及び郡参事会が新設された。郡参事会は郡長及び名誉職参事会員のうち三名は郡会の互選によって選ばれ、一名は府県知事の任命によって就任した。郡会は、郡の歳入出予算の決定、決算報告の認定、郡有財産の管理・維持・処分などであった。その他官庁から諮問(しもん)があった時の意見陳述権(ちんじゅつけん)、郡の公益に関する事件の建議権(けんぎけん)をも備えていた。議長は郡長で、郡会の召集権、開閉権があった。郡会議員の選出は、三分の二は町村会議員の互選によって選ばれる間接選挙制(複選制(ふくせんせい))で、残り三分の一はその郡内で町村税を負担する所有地の地価総額が一万円以上を有する大地主による互選であった。ただし、大地主の数が三分の一以下である場合は選挙せず郡会議員となった。この大地主議員の制度は、プロシャの制度を模倣(もほう)したものであり、日本の国情に合致(がっち)せず、同年の郡制改正で廃止され、以後、直接国税三円以上を選挙権者、同五円以上を被選挙権者とする直接選挙制に改められた。
これらの府県制及び郡制の問題点は、複選制や大地主議員が存在したことにあるが、この民意を反映しない地方制度を改進党(かいしんとう)左派、自由党系の人々は地方自治の不充分さとして強く批難した。特に官選郡長が議長となる郡会には批判が強く、府県会も出納(すいとう)を論ずるのみとして明治十一年の府県会規則と大差なしと批難された。やがて、地方自治の発展のために郡長の公選制や府県会の議決権の拡大、新設郡の経費の町村への転嫁(てんか)軽減が要求されていくが、歴史的背景を持たない郡の自治体制はその後発展することなく、むしろ、行政機関化したため、衆議院を中心に郡制廃止の方向に向かった。同三十八年(一九〇五)第二十一回帝国議会に郡制廃止案が提出されたのを皮切りに、第二十二回、二十三回、三十一回帝国議会で審議され、いずれも貴族院で否決、若しくは審議未了で不成立となった。しかし、日露戦争後の緊縮財政政策の一環として行政組織を簡素化(かんそっか)する必要性からと、資本主義の発展による町村をはじめとする都市の大規模化によって、事実上郡が無用化していくという見通しの中で、論議が進められていったが、一方で、政党勢力の「官僚(かんりょう)の政党化」のねらいがあった。
これに対して、市制町村制をはじめ、府県制郡制の施行によって、自らが創設した府県-郡-町村を結ぶ有力者支配体制による地方制度が崩壊(ほうかい)することを恐れた山縣有朋(やまがたありとも)と貴族院(きぞくいん)の山縣派官僚は激しく反対したのである。このように郡制廃止問題は、政党勢力と官僚勢力の政治的かけひきの材料となったが、貴族院にも浸透(しんとう)していた政友会の原敬(はらたかし)内閣が成立すると、大正十年(一九二一)の第四十回帝国議会に郡制廃止法案が提出され、同年三月成立した。これによって、同十二年四月一日を以て郡は単なる行政区画となり、郡長、郡役所が国の地方行政官庁として残ることになった。さらに同十五年には郡役所も廃止され、郡長も同年地方官制の改正によって廃止され、郡は単なる地理的名称にすぎなくなった。

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