北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第4節 生活と文化の展開

3 石戸の蒲桜

歴史

写真130 東光寺ノ蒲桜ニ古碑図

(『日本随筆大成5』吉川弘文堂「玄同放言」より引用)

北本市石戸宿の東光寺境内(けいだい)の小高い丘にヤマザクラの古木がある。古来より人々に親しまれ、「蒲桜(かばざくら)」と呼ばれてきた。現在、太い幹が二本出ており、一本は数メートルで立ち枯れ、内部を露出し保存措置がとられている。もう一本は二〇メートル近くに達しており、その間に数基の板碑(いたび)が食い込んでいる。境内は市域の西南の大宮台地にあり、すぐ眼下に荒川が流れ、晴れた日には富士山、秩父山系、さらに浅間山や榛名山などが望める景勝の地にある。この境内一帯は、堀の内館跡といわれ、鎌倉時代の後期から南北朝時代前半の特徴を示しているといわれる。東光寺は時宗で入間郡川越の東明寺の末寺である。
この蒲桜は江戸時代から広く知られていて、また地元の人々からも親しまれてきた。滝沢馬琴(ばきん)が文政三年(一八二〇)に出版した『玄同放言(げんどうほうげん)』や、江戸小日向の浄土真宗廓然寺の住職であった津田大浄が江戸近郊を遊歴して書いた『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』、松浦静山の『甲子夜話(かつしやわ)』等の江戸時代の記録にも取りあげられている。以下、『玄同放言』によってその歴史をみてみよう。
それによると源範頼は、義朝の六男で母は池田宿の遊女であり、遠江国の蒲の地に生まれたので、蒲の冠者(かじゃ)と称せられたという。治承(じしょう)五年(ーー八一)志田三郎義広が謀反し、兵を起こして鎌倉を攻めんとした時に範頼は諸将と小山朝政の陣に加わって義広を滅(ほろぼ)した。また、寿永(じゅえい)三年(ーー八四)には頼朝の命を受けて弟の義経とともに源義仲を討って功があった。その他いくつかの功をあげたが、元暦(げんりゃく)二年(ーー八五)平家を討滅し凱旋(がいせん)して鎌倉の浜の宿にいたが、建久四年(ーー九三)の秋、謀反のかどで伊豆国に幽(ゆう)せられ、遂(つい)に誅(ちゅう)せられた。ところが、江戸から程遠からぬ田舎に範頼の墓と城跡と唱うる所があるので行って見た。所は武蔵国足立郡石戸荘堀之内村の東光寺という小道場で、墓門の傍(かたわら)に巨桜樹一株があった。下から見ると高さ四丈ぱかり、幹の周囲は二丈であり、枝は左右へ三〇間に及んでいる。この樹下には古碑が一五本、石塔婆(とうば)が一本あって、その碑の二本はすでに幹につつまれている。それは樹が巨大であって碑との間が迫ってとうとう幹の中に入ってしまったものである。碑は片石(いたいし)で青く摂津(せっつ)の御影石というものに似ているが伊豆石であろう。刻(ほ)ってある年月はかすかに読め、貞永(じょうえい)・寛文(かんぶん)・文応(ぶんおう)・弘安(こうあん)等の号がある。とすれば、この樹は六〇〇年来のものであること疑いない。人々はこれを蒲桜といっている。そして渡辺崋山の筆になる蒲桜と古碑の図をのせている。里老(りろう)のいい伝えでは、昔はこの地は源範頼の城地であったので、今も堀の内と言っている。城の溝は過半は埋れて田園となったけれど、残ったものは大きな池となった。その他、いくつかのなごりが地名として残っている。範頼はこの地で他界し、今の東光寺に葬られ、桜は墓標に植えたものである。それ故蒲殿にちなんで蒲桜といった。東光寺については慶長(けいちょう)年間の延焼(えんしょう)によって寺記が伝わらず縁起(えんぎ)はわからない。巨桜(きょおう)については伝え聞くだけで詳細はわからなかった。友人の渡辺崋山が私のために東光寺に行って古碑を写し、また里老の話しを聞いてきてくれたのが以上の話しである。東鑑(あづまかがみ)には伊豆に配流(はいる)されたとのみあって誅(ちゅう)せられたとはない。

写真131 石戸蒲ザクラ

尾形月耕作(青木忠雄氏蔵)

保暦間記(ほうりゃくかんき)には建久(けんきゅう)四年の八月に誅せられたとある。範頼がほんとうに誅せられたならば東鑑には必ず記録されるはずで、書かれていないのは誅されなかったからではないだろうか。しかし、考えるに足立郡は藤九郎盛長の苗字の地であり、範頼は盛長の婿(むこ)であるから伊豆に幽閉されたのちに足立氏(安達氏)に預けられたのであろうか、また預けられて今の堀の内の地に押し込め置かれてその地で終わったのであろうか。
以上のように馬琴(ばきん)はのべている。史実では範頼は建久四年(ーー九三)伊豆修善寺で頼朝の手の者に殺されている。貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)の一種ともいえるが、この地が藤九郎盛長とのかかわりなどから範頼とのかかわりの深い地であったことも頷(うなず)ける。
蒲桜の樹中に包まれた板碑(いたび)については馬琴ものべているが、大正十五年(一九二六)一月に内務省刊行の『天然記念物調査報告書』(近代№三一〇)でも調査報告がなされている。それによると、最も古い板碑(いたび)は貞永(じょうえい)二年(天福元年改元ー二三三年)とあり、今からおよそ七六〇年程前であり、鎌倉時代初期のものである。板碑は別に板石塔婆(いたいしとうば)とも呼ばれ、中世の人々が死者の追善(ついぜん)のために、あるいは死後の安穏(あんのん)を願って造立したものといわれ、鎌倉時代から室町時代にかけてが全盛であった。鎌倉時代の造立主は源氏御家人(ごけにん)の武士層が中心であり次第に一般の人々も造立するようになった。

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