北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第3節 太平洋戦争と教育

4 戦争の激化と戦時非常措置

増産教育と勤労動員
食糧増産、これは戦時下の農村に課せられた最も重大な問題であった。しかし、戦争の長期化と悪化する戦況のなかで農業生産の中核を担う男子青壮年労働者は次々に召集されたり、軍需産業部面に流出し、増産どころか逆に農業生産は低下し、食糧不足は戦況に比例して悪化の一途をたどった。そこで国民学校(農村の)も食糧増産に協力し、増産教育に取り組んだ。中丸国民学校はその好例であって、そのリーダーは田島校長であった。彼は農業教員養成所を卒業し、その道の専門家という立場にあった人であるが、その彼は、昭和十六年三月同校の校長として着任すると、早速増産教育の準備に着手した。すなわち、同年八月堆肥盤、サイロ各一基を設置し、翌十七年には畜舎一棟を増築して農業施設の拡充に努めた。
その一方、施す肥料もない状況を憂慮し、堆肥づくりを重点的・組織的に行った。それは、およそ次のとおりである。まず従来の通学分団を白山隊(別所・花ノ木・古市場)、天神隊(北本宿・山中)、北中丸氷川隊(北中丸)、宮内氷川隊(宮内・深井)、浅間隊(東間)などその地域の村社名を冠(かん)した隊に再編成し、高等科生を中心に隊ごとに堆肥にする草の刈り取りをした。草刈りは早朝または放課後行い、翌朝登校の際リヤカーや大八車、あるいは籠(かご)につめて学校に運んだ。校門には当番が立っていて、草の良否や量について検査し細かな注意を与える。その関門を通過すると、裏庭に指定された自分の隊の堆積場に積み上げる。すると、そこにおのずから競争原理が働き、草は隊ごとにうず高く積み上げられる。もちろん、草だけを積み上げたのでは窒素、リン酸、加里の養分をたっぷり含んだ良質の堆肥ができないので、積み上げた草に便所から吸み上げた人糞をかけ、一定期間をおいて天地替えをしてよくまぜ合わせる。その作業を何度も繰り返して十分に完熟させる。
こうしてでき上った良質の堆肥は庭に隊ごとにうず高く積み上げられ、その光景はまるで日本アルプスの高峰が立ち並んだように壮観だったという。各隊は堆肥のでき栄えとその量を比較し互いに自慢し合った。学校は各隊の堆肥づくりを検査し、賞状を授与してこれを奨励した。また、各隊を中心とした協同堆肥づくりと並行して、各家庭でも行わせた。したがって、児童は隊員として集団草刈りをする傍ら、個人草刈りにも精を出し、それを庭の片隅に崩れないように枠などをして上手に積み上げた。そのような個人の堆肥づくりを、時々教員は分担して巡視し、よいでき栄えのものを表彰した。児童が丹精こめてつくった堆肥は学校農場及び各家庭の田畑に施されたが、その効用は篤農家(とくのうか)を驚かせるほどであったという。
こうした中丸国民学校の増産教育はたちまち県当局によって注目され、増産教育の指定校に認定された。そして昭和十八年九月、盛大に発表会を開催した。当日は県・郡視学をはじめ校長・農業科担当教員等が多数参会し、得意の堆肥づくりの実際を公開した。その後、発表内容について熱心な討議が行われたが、本校を参観した教員はうず高く積まれた堆肥の山に感服するとともに、本校の増産教育を異口同音(いくどうおん)に賞賛した。そして本校の堆肥づくりを基本とする増産教育は素早く全県下に広く波及し、戦時下における食糧不足改善の一助となった。緑草による堆肥づくりと増産教育は、もちろん石戸国民学校においても実施された。
食糧増産という時の国策への協力は、右に述べた増産教育のみではなく、学校農場の開拓や農作業、あるいは出征家族に対する勤労奉仕など多様に行われた。昭和十七年三月、埼玉師範学校を卒業して中丸国民学校に着任した宮倉教諭は、当時を回想して「生徒たちも勤労をいとわず、実によく働いた。学校の農場での麦刈り、いも掘り、出征遺家族への手伝いで蚕あげ、麦まき。農繁期には、連日、総動員で働いた。」(『中丸小学校八十年史』P一六五)と述べている。この事実を学校日誌によって検証したいが、残念ながら昭和十八、九年の中丸国民学校のそれが欠落しているので石戸国民学校の『学校日誌』によって当時の国民学校の様子を見てみよう。
同校の『学校日誌』に「勤労奉仕」という記事が出てくるのは、北本市域に警戒警報が初めて発令されて間もない昭和十八年六月初旬のことである。しかし、それは少年団の一活動としての記事であって、国民学校の活動を示すものではない。食糧増産という国策路線にそって、勤労奉仕が明確に国民学校教育のなかに導入されてきたのは、昭和十九年度に入ってからであって、同年六月中旬ごろからにわかに勤労奉仕の記事が登場している。
六月 十九日 (月) 曇  午後高等科総員勤労奉仕
六月二十三日 (金) 晴  高等科全部小麦の収穫
七月  七日 (金) 晴  報国農場除草初六、高一、二年
七月  十日 (月) 曇  勤労奉仕高一男、初六男
七月二十五日 (火) 曇  勤労奉仕(初五男女)

実りの秋を迎えると、児童の勤労作業はさらにエスカレートし、高等科は連日農作業に追われる日々がつづいた。
十月 廿三日 (月) 曇  高等科甘藷(かんしょ)収穫
              高一開墾 倉庫前
十月 廿四日 (火) 晴  高等科作業
               高二桜 甘藷俵作り
               高一桜 陸稲刈
               高二梅 切干作り 
               高一梅 農場整理
十月 廿五日 (水) 曇  高等科作業
               高二桜 陸稲刈
               高一桜 陸稲上げ
               高二梅 切干作り
               高一梅 玉葱(たまねぎ)移植
十月 廿六日 (木) 晴  高等科作業 
               高二桜 肥料運び
               高二梅 切干作り
               高一  陸稲取入れ

秋がすぎて冬になると、勤労動員は高等科生のみではなく初等科生(三年生以上)にまで及び、毎日のように寒風のなかを麦踏みに出た。それは一日がかり(午前十時~午後三時)のこともあれば、一、二時間授業をして出ることもあった。
すでに前項で述べたように、昭和二十年に入ると連日しかも一日複数回にわたって警戒警報が発令され、しばしば授業が中止されるような事態となった。そうしたなかで同年三月、ついに決戦教育措置要綱が出され、国民学校初等科を除くすべての学校の授業が一年間停止されることとなった。その結果、国民学校高等科以上の学徒は農場や工場で生産活動に従事する労働者となった。昭和二十年の『学校日誌』には、警戒警報の発令・解除と並んで勤労動員に関する記事が日々のニュースとして綴られている。それによると、高等科が通年動員体制に入ったのは石戸国民学校では四月二十六日、中丸国民学校では五月十六日であった。
通年動員体制には組みこまれなかったものの、初等科生も五、六年生ともなると、しばしば除草・農耕・茶摘みなどの勤労作業に動員された。中丸国民学校の『学校日誌』(昭和二十年度)には、
六月八日 (金) 曇  初等科出動
七月三日 (火) 曇  初等科勤労動員
七月五日 (木 )晴  初四以上児童農耕出動
七月六日 (金) 晴  初四以上児童農耕出動
七月七日 (土) 曇  初四以上児童農耕出動
           初四、五、六非農家児童除草を行ふ。
七月十日 (火) 晴  初等科四年以上勤労動員出動

とあり、初等科生が連日農耕作業に動員されている実態を明らかにしている。ここにおいて勤労動員年齢は、ついに十歳未満まで低下し、少国民まで抱きこんだ総動員体制がとられた。
なお、制海権・制空権を奪われ石油等の燃料資源の移入が断たれると、松林の多い北本市域はその代替(だいたい)として松根油(しょうこんゆ)の採取を命ぜられた。二十年七月二十七日、北本宿青年学校で松根油採集の講習会が開かれ、八月に入ると初等科六年生を中心に松根油の採集が開始された。しかし、この時期には広島・長崎に新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言受諾(じゅだく)による無条件降伏も最終的段階を迎えていた。そして八月十五日、三年八か月に及んだ太平洋戦争は、日本の敗戦をもって終結した。

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