北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第3節 太平洋戦争と教育

4 戦争の激化と戦時非常措置

軍隊の駐留と二部授業
昭和二十年二月半ば硫黄島に、つづいて四月一日米軍は沖縄本島に上陸し、太平洋戦争はいよいよ最後の碧(とりで)として本土決戦・一億総蹶起(けっき)が叫ばれる事態となった。そして翌五月二十二日戦時教育令が公布され、「尽忠(じんちゅう)以テ国運を双肩ニ担」う学徒をそのまま国土防衛のための学徒隊に組織し、軍事教育、防空防衛、生産技術、その他戦時に緊要な教育訓練を行うものとした。すなわち、学徒による本土防衛隊の結成である。それからおよそ一か月後の六月二十日、本土決戦に備えて石戸・中丸両国民学校に軍隊が駐屯することとなった。駐屯した部隊は拓第二一〇七〇部隊で、石戸校には鶴岡隊と小宮隊、中丸校には若松隊であった。その結果、石戸校では表校舎半分が、中丸校では八教室が兵舎に転用されたため、疎開学童を迎えて増加する児童を一度に授業することが困難となり、二部授業を実施せざるを得なかった。昭和二十年度の石戸国民学校の『学校日誌』には、「六月二十五日全校召集二部授業ニテ授業ス」とあり、七月二日にも同様の記述が見られる。なお、同校では講堂において「兵隊さん慰問演芸会」を開催している。
中丸国民学校も拓部隊の駐屯によって二部授業を行ったが、部隊本部が間もなく桶川国民学校へ移転したため、その期間はごくわずか(六月二十五日~二十八日)で、六月二十九日から再び一部制に復帰した。こうして子どもたちの学舎は、終戦直前の時期に、一時的にせよ一部兵舎と化し、児童は二部授業を強いられたのである。その授業も警報のサイレンにおびえながらであった。

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