北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

3 乏水台地(ぼうすいだいち)と農業用水計画

谷津田(やつだ)と摘(つ)み田

写真6 谷津田と米作り 昭和50年 荒井

大宮台地の地形は、北部では北東に向けてゆるく傾斜し、縁辺部は旧荒川・利根川の沖積層(ちゅうせきそう)におおわれている。南部と西部では十~二十メートルの比高をもって、現在の荒川や旧入間(いるま)川筋と思われる沖積低地と接している。このため、台地の東側では浸食谷の発達はあまりみられないが、南と西側には樹枝状に発達した浸食谷が各地に分布している。とりわけ北本市西部では顕著(けんちょ)に認められる。
これらの浸食谷の谷頭や谷壁には、湧水(ゆうすい)や滲出水(しんしゅつすい)がみられ、古くから水田用水や飲用水に利用されてきた。しかし近現代になって台地上の平地林が農地や宅地として開かれ、地下水を養う働きが急速に失われていった。
その結果、浸食谷につくられた谷津田の米作りは、深刻な水不足に悩まされることが多くなった。そのうえ用水増加につながることから、湿田の多い谷津田は排水改良も思うに任せず、長いこと低い生産性に喘(あえ)いできた。しかもひとたび大雨が降ると、平地林という保水機能を失った台地の水はいっきょに谷津田に流入し、甚大な湛水(たんすい)被害をもたらすこともしばしばであった(現代No.八十四)。
旧一市十六町村に広がる大宮台地の用水不安定な谷津田面植は、終戦直後のデータによるとニ二三二町歩を占め、上記市町村の全水田面積の六十パーセント強に達していた。このうち北本宿村では中丸が九十四ヘクタール、石戸が六十五ヘクタールであった。かつての低湿でかつ天水田(てんすいでん)の多い大宮台地の谷津田では、摘み田と呼ばれる農法が古くから普及していた。
摘み田とは、肥料と種子とをいっしょに播(ま)き付け、田植はしない水稲栽培法である。湿田の地中に並べた丸太を渡りながらの播(ま)き付け作業、あるいは田舟を曳(ひ)きながらの収穫期の稲穂の摘み採り作業は、大変な労働であった。
表9 水源別水田割合表  昭和二十二年(単位・町歩)
市町村天水田見沼用水田鴨川用水田荒川用水田
大 宮 市三五〇二四六
与 野 市九八六三
土 合(つちあい)村一九八一八三
大久保村九七一七四
植 水(うえみず)村八一一六六
馬 宮 村五〇一六八
指 扇(さしおうぎ)村二一九
平 方(ひらかた)町七四
大 谷(おおや)村八一
大 石 村一二〇
上 尾 町七六
上 平 村七五
小 室(こむろ)村一二二一五〇
小 針 村五八一二四
加 納 村一八一
桶 川 町三七
川田谷村九六
石 戸 村六五
中 丸 村九四
原 市 町六二五一
二二三二八一七三四〇一六八

(北本宿 六七より作成)


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