北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第4節 工場適地と企業誘致

2 北本の工場適地と工場設置奨励条例

工場設置奨励条例と誘致工場
昭和三十四年九月、計画中の十七号国道・高崎線・平地林と三拍子そろった立地条件を活用するため、北本宿村(まもなく北本町となる)では工場設置奨励条例を設けて企業誘致活動に着手する(現代NO.九九)。しかし、昭和二十七年頃から、すでに県南部・県西部を中心に県下の一六市町村が条例を設けて、東邦レース(上尾)、片倉ハドソン(大宮)本田技研(大和)をはじめとする一一工場の誘致に成功していること、さらに昭和三十三年頃には県下二五市町村に条例施行がみられ、とりわけ北本に隣接する上尾、桶川、鴻巣、吹上など軒並みに条例を設置していることからわかるように、北本の企業誘致はかなりおくれたスタートだったといえる。
表14 北本宿村工場適地  (昭和27年6月現在)
区分所在地総面積
(山林原野)
北本宿駅 距 曜中仙道距雌地権者数備考
第一予定地大字北本宿23,921
(21742)
1,500m100m以内岡野信春氏 外56名
第二予定地大字北本宿35,589
(30600)
1,600m100m以内鈴木秋宏氏 外55名住宅1戸
第三予定地大字下石戸下33,372
(31330)
1,000m100m以内小川幸次郎氏 外41名住宅2戸
第四予定地大字荒井19,513
(19513)
900m200m以内斉藤利幸氏 外55名盛家1戸
第五予定地大字深井2,326100m以内株式会社 英工社建物多数

(北本宿№161より作成)

ともあれ、おくればせながら発足した北本宿村工場設置奨励条例の要点は、指定基準が(イ)従業員三〇人以上、(ロ)設備投資額五〇〇万円以上のニ点に該当する企業であること、並びに奨励金助成額は誘致企業の固定資産税額のうち初年度四分の三、次年度四分の二、三年度四分のーに相当する金額を交付する、というものであった。北本宿村の工場設置奨励条例を他の先発市町村と比較すると、基本的に一致するのは本庄(ほんじょう)、深谷(ふかや)のみで、他の多くの市町村では指定基準が従業員五〇人以上、設備投資額一〇〇〇万円以上とされ、奨励金交付額は市町村民税と固定資産税の合算額となっている。したがって北本宿村の場合、指定条件は緩(ゆる)いが、その分奨励措置も低レベルであったといえる。
北本宿村の工場設置奨励条例の制定期は、たまたま高度成長経済の展開期と一致していた。高度経済成長の進展は、東京への人口集中と近郊地帯への企業の進出を急速に推し進めた。その結果、条例設置から二年を経た昭和三十六年末までに、北本に立地した企業は日本蛭石(ひるいし)、柳井製作所、外山製作所、三和製鋼所、内外金属工業所、三倉精機製作所(以上東間)根岸製作所(北中丸)、東菱鋳造(古市場)、可鍛鋳鉄(かたんちゅうてつ)(宮内)、太田鉄工所(下石戸下)、十条電気(高尾)、栗田電気製作所(下石戸上)の一ニ社に達した。これら誘致企業の分布傾向をみると、十七号国道(当時建設中)に近い東間地区及びその周辺に集中的に立地し、高崎線以南の石戸方面では散在的であった。また、業種的には機械、金属、電気等の企業が特徴的であった(現代NO.一〇〇)。
この頃、天下の耳目を集めた三菱系八社と米国レイノルズ社との合弁による三菱レイノルズアルミニウム株式会社の誘致決定は、県内市町村の羡望(せんぼう)の的(まと)となっていた。立地予定地は桶川町の三菱金属に隣接する高崎線南側一帯の三五万平方メートルにわたる一大プロジェクトであった。資本金規模四億三七五〇万円、用地規模三五万平方メートルという同社の誘致に成功すれば税収一億七〇〇〇万円が見込まれるとあって、町当局は三菱特別誘致委員会を中心に、用地買収に向け総力を挙げて取り組んだ。
ちなみに当時の模様を昭和三十六年十一月二十五日の『埼玉新聞』から拾ってみよう。
すでに十二工場誘致 「三菱」の土地買収も確定
北本町は昭和三十四年十一月町制を施行以来、約二年驚異的な躍進を続け、行財政の面においても県南都市とならび着実な歩みをつづけている。かつて農村都市としての北本町も最近つぎつぎと工場の誘致に成功、現在その数十二工場、重工業、軽工業或は精密機械工業と各部門の工場の進出をみ、既にその殆(ほと)んどが操業を開始している。
このため町の様相も大きく変貌(へんぼう)、工業都市として急速に脱皮しつつある。さらに十七号国道バイパス線が本年度中に完成しょうとしており、これが完成の暁にはますます工業都市化に拍車(はくしゃ)をかける結果となる。町としてもこれに対処するため目下鋭意道路の整備や都市計画の実施など変転する行政に追いかけられる状態で町(ママ)を通じ、活気に満ちている。これは第一に町全体の平和であり町民が執行者に協力する体制とその熱意である。その現れとして九八%を越える納税成績はますます財政を強靱(きょうじん)にして年度毎に相当額の黒字を生じ、地方公共団体共通の悩みである教育施設の点においても本年中学校々舎の増築を終えた。
さらに今回三菱工場の誘致がほぼ確定し地主の調印を終える段階であり、この三菱工場は三菱各社とアメリカ資本ならびに日米両国の技術提携による新設会社で恐らく国際的超一流工場である。工場用地三十五万平方メートル余の広大のもので国鉄沿線と十七号国道沿線という立地条件を具備し、恐らく県下随一の地点といっても過言ではない。加えて投下資本一〇〇億、既に工場設立計画も終り地主との契約完了次第直に着工する。この工場が完成すると昭和四十年の同町の税収推定額は一億五千万円の見込みであり、新に北本町は紀元を画する一大変化をもたらすことは必須である。現在の北本町はその面積一九.六三平方キロメートル、まだまだ工場進出の余地もあり人口増加を受け入れられる弾力性に富んでいる。こうした恵まれた立地条件をフルに活用し、町民が混然一体となり町の発展を期する北本町は、十年を期せずして人口五万の市制施行も夢にあらず、その躍進が期待されている。
近い将来市制施行 三菱誘致喜びにたえない
伊藤助役談 今回誘致確実となった三菱新設工場の北本町進出は誠に喜びに堪えない。工場の誘致は公共団体の経済的の基盤確立には最も重要な要素であって、如何なる市町村といえども財源の裏付けなくしてはその発展は期し得られない。この際でき得る限りの助力を惜しまない。成長を続ける北本町が、更に巨大な三菱工場の誘致ができることは天祐(てんゆう)なりと信ずる。
結果は地権者六八人中五六人の承諾を取りつけながら、中心地区地権者の協力が得られず、用地買収工作は失敗に終わり誘致計画は挫折(ざせつ)した。誘致推進主体の町当局はもとより、町と一体となって努力した区長会、商工会等の失望は大きかった。もっとも今にして思えば、まもなくアルミ業界は構造的不況に陥ったことを考えると、必ずしも諦(あきら)め切れない程の痛恨(つうこん)事だったとはいえないかも知れない。
なお、昭和三十六年、立地条件に恵まれた北本町の工場設置奨励条例は、企業の活発な進出を反映して設置後わずか二年で廃止され、代わって町長の単なる諮問(しもん)機関としての「北本町工場誘致委員会」が誕生する(現代NO.一〇一)。税収増加のための手段としての企業誘致が、自治体首長の政治生命をかけた目的としての企業誘致になりかねない当時の世相の中にあっては、賢明な転換策であった。

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