北本市史 資料編 自然

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第1章 北本の地形

第2節 低地の形成

台地を侵食する開析谷の発達
北本の西側台地上を深く複雑に刻み込む開析谷の形成過程と、その形成環境の変遷を知るために、開析谷の中において数十本のハンドオーガーボーリングを実施し、資料収集にあたってきた(図11№1~31)。この資料と北里研究所建設地(農事試験場跡)で行われたボーリング資料を合わせ(図13)、開析谷の形成過程を推論した。
凡例
盛土 砂層 砂礫層 シルト質粘土層 シルト質砂層 粘土質シルト層
粘土層 木片 泥炭層 腐植 シルト層 土器
盛土 砂層 砂礫層
シルト質粘土層 シルト質砂層 粘土質シルト層
粘土層 木片 泥炭層
腐植 シルト層 土器

図11 開析谷のボーリング柱状図(№1~№31は調査地点を示す)

(No1)

(No2)

(No3)

(No4)

(No5)

(No6)

(No7)

(No8)

(No9)

(No10)

(No11)

(No12)

(No13)

(No14)

(No15)

(No16)

(No17)

(No18)

(No19)

(No20)

(No21)

(No22)

(No23)

(No24)

(No25)

(No26)

(No27)

(No28)

(No29)

(No30)

(No31)


図13 谷地と台地の地質断面図(北里メディカルセンター建設地の台地と解析谷)

開析谷の柱状図(図11№1~31)では、数センチから一メートルの厚さにも及ぶ黒色または黒褐色の泥炭層の発達と、シルト層・粘土層・粘土質シルト層等の卓越することが認められ、一部を除外して、砂礫層の堆積が不良であることが明らかである。
次に、開析谷の縦断面図(図12)を作成して検討してみると、それぞれの開析谷の基底をなすものは、ほぼ砂礫層と考えられる。この堅硬な砂礫層は、開析谷が下方侵食を受けることに強く抵抗し、遷移点(河床の縦断傾斜が急変する地点をいう。この場合は、河床の一部に硬岩が存在していて侵食に対する河床の抵抗性の強い岩石遷移点と考える)となって谷底の傾斜を緩やかに保ち、または凹地を生じさせるがごとく作用している。

図12 開析谷縦断面図

※桜堤から城山、石戸宿方面に発達する解析谷のハンドオーガーボーリング結果(図11)に、泥炭層の採取地点と砂礫層及び¹⁴C測定地点(A-№11、B-№27、C・D-№19)を記載。

開析谷に認められる泥炭層もまた、開析谷の縦断面が平衡を保つ谷底に発達が良好で、谷頭付近や谷の傾斜の急な場所にはほとんどその発達をみない。桜堤から城山・石戸宿・堀ノ内・城中方面に深く進入する北本最大の開析谷での泥炭層の堆積高度は、およそ一〇~一三メートル、一二~一五メートル、一八メートル以上の三群に区分できる。この三群の泥炭層は、三つの異なる平衡で狭長な谷底中にそれぞれ堆積する。
開析谷地下で採取した木片・泥炭等の一部に、放射性炭素年代測定(学習院大学木越研究室依頼)を実施しその堆積年代の特定を行なった。その結果、最も古い測定年代は五一二〇±四〇年(三一七〇BC)、次いで四三六〇±一二〇年(二四一〇BC)、そして四一七〇±二〇年(二二二〇BC)、最も新しい測定年代は三三二〇±一〇〇年(一三二〇BC)の各値を得ることができた。
四件の資料の中で最も測定値の古いものは、クルミ片とともに採集された木片で、地表下三・四~三・六メートルの砂層中に埋積されていた。
泥炭層中から採取された植物腐植や木片の一番古い年代を示すものは四三六〇±一二〇年(一四一〇BC)、最も新しい測定値は三三二〇±一〇〇年(一三二〇BC)となり、14C年代測定法によって得られた年代と、泥炭層の発達する深さは必ずしも対応しない(図12)。このことは、開析谷に局所的な深浅があったこと、あるいは、開析谷中に局部的で複雑な堆積環境の相違や侵食環境の強弱による凹凸の形成が行われてきたことを物語るものと思われる。
北本西部の台地を侵食する開析谷の形成過程は、次のように推察できる。
北本の台地上に、洪積世の火山灰が堆積を終了した以後、ここには長期間の侵食作用が継続し、ローム台地下一五メートル付近に堆積していた四~五メートルの厚さの砂礫層に届くほどの深い侵食谷を形成した。しかしここで硬い砂礫層の強力な抵抗にあい、その砂礫層を遷移点として河谷の平衡が保持され、この遷移点に支持されたたいへん緩やかで狭長な小盆地状の河谷地形が形成された。その結果、部分的、局所的に湿地的な堆積環境が発達してここにヨシ・アシが繁茂することになった。このような状況の中で、周囲の台地から流水が集まっては粘土やシルトや砂を穏やかに堆積し、泥炭層の良好な発達を促がすことになった。
開析谷の沼沢地的環境は、おそらく縄文時代前~中期頃には整い、それ以後、ほとんど同様な堆積環境が今日まで続いて存在してきたものと考えられ、縄文海進後のいわゆる海水面安定期にシルトや粘土層等の沖積層が比較的静かに堆積したものであろう。
なお、北本西部の台地上には、桜堤から進入する開析谷の他に、荒川左岸から宮岡氷川神社方面に進入するものや、北袋から中井に連続する開析谷も良好に発逹し、海抜三〇~二五メートルの台地を侵食、開析して狭い谷底低地が形成されている。
谷地と呼ばれる開析谷は、かんがい用水を設備することが困難であった時代や、稲作農業の強い要請があった時代には、台地縁からの湧水が常に利用できる安定した米作田として谷地田が開かれ、台地上の陸田や河川沿いの沖植低地とともに、重要な米の生産地帯として組みこまれてきた。

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