北本市史 資料編 自然

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第1章 北本の地形

第2節 低地の形成

赤堀川沖積低地の発達
赤堀川沖積低地に面し、花の木から東南東に突出する台地上に位置した桶川市後谷遺跡の発掘調査報告書(一九七九)は、赤堀川沖積低地の形成過程を次のようにまとめている。
これによると、後谷遣跡の面する赤堀川沖積低地は、洪積世末頃から沖積世初めの低海水面期に、洪積台地が侵食・削剝作用を受け、そこに浅い開析谷が形成された。その後、縄文海進の海面上昇期に河川が砂礫を堆積したが、縄文海進終了後比較的海水面が安定すると堆積作用は穏やかになり、沼か沼沢地的環境の中に周囲から流水が集まる堆積環境が成立し、縄文晩期から以後ずっと、ごく近年の干拓が行われるまで、この地域が沼沢地として存在してきたことを報告している。
赤堀川の谷に位置する北本市立学校給食センターの地表下三メートル付近に堆積するシルト質砂層(図10)以深の地層は、他地点のボーリング柱状図との連続性とN値(ハンマーの打撃により抵抗体を地中に貫入させ、一定量打込みに要する打撃回数で標示する。打撃回数が多いと地盤の相対強度は高い)からみて洪積層と考えられる。したがって赤堀川の低地は、洪積台地を開析した浅い谷に、薄層の沖積世のシルト層、粘土層、泥炭層が静かに埋積して形成された沖積低地であり、後谷遺跡調査報告書で明らかにされた赤堀川の沖積低地の形成過程とほとんど一致すると考える。

図10 北本の地質推定断面図

後谷遺跡調査報告書は、後谷遺跡の載る台地の形成過程について、「まず湿地的環境の時代に武蔵野ローム層が堆積して粘土化が進み、その後立川ローム層も堆積したが、継続する侵食作用が、立川ローム層のすべてと武蔵野ローム層上部を削り取った」ことを認め、さらに「侵食をまぬがれて残った武蔵野ロ ーム層の上には大里ローム層が堆積したが、大里ローム層もまた縄文晩期までに侵食作用を被り、ローム曽上部は削り取られて薄層の大里ローム層がわずかに残ったものである」と述べている。

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