北本市史 資料編 原始
第1章 北本の遺跡概観
第2節 遺跡概観
各時代の概要北本市内にヒトが住みはじめたのは、今から一万年以上も前の旧石器時代のことである。この時代は、土器が発明される前のことであるから先土器時代とも無土器時代ともいわれるが、ヨーロッパの旧石器時代とは異なり、新石器時代の特徴的利器である磨製石斧が発見される。しかし、最近になって、外国でも旧石器時代の終り頃の遺跡から磨製石斧が伴出していることがわかってきた。
北本市内には、旧石器時代の遺跡は少なくとも四か所存在する。それらのうち発掘調査が行われた遺跡は、八重塚遺跡と桶川市境にあった提灯木(ちょうちんぎ)山遺跡の二か所である。他は遺物のみの採集である。この頃は、気候的には寒冷期にあり、気温は現在よりも三~六度も低かつた。当時、日本列島は大陸と陸続きであったので、北方系の動物も生息していた。
これらの遺跡は、比較的小さな川に臨んだ台地上にあって、河原石を集めて焼いた礫群(れきぐん)と呼ばれる遺構(石焼き料理の跡)や石器製作の跡を示すユニットと呼ばれる生活跡が発見される。遺物としては、槍先につけたとみられる角錐状(かくすいじょう)の尖頭器(せんとうき)やナイフ形をした石刃(せきじん)や彫器がある。
これらの遺跡がローム層中から発見されるのは、当時の日本列島の火山があちこちで噴火を繰り返し、火山灰を降らせていたからである。台地上の植物は、草原や疎林(そりん)が茂る程度であったが、水辺にはカラマツ・トウヒなどの針葉樹や、ミズナラ・ブナ・クルミなどの落葉樹が繁茂していたと推察される。
縄文時代は、約一万年前から二〇〇〇年前までの約八千年間である。この時代の遺跡は、北本市内で五四か所確認されている。この時代を特色づけるものは、縄文土器の製作、弓矢の使用、磨製石器の使用であり、世界史上の指標となっている牧畜や農耕・紡織については不詳である。
縄文時代の時期区分は、縄文土器の研究によって、六期・四〇余型式に分かれている(表1参照)。草創期は土器製作をはじめた時期で、砲弾形の土器・有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)などを特徴遺物とし、住居は洞窟や岩蔭・片流れ屋であった。この時期の土器を出土する遺跡は、市内で五か所確認されているが、遺構の状態は不明である。
縄文早期は、竪穴住居がひろまりはじめた時期でもある。草創期のように、漂泊的な生活から徐々に定住化へと向かう時期でもあった。早期の終り頃の茅山(かやま)式の土器が流行する頃、北本地方には遺跡の数が急増した。土器は、底が尖った形をし、押型文(おしがたもん)や貝殻沈線文の文様が多くなった。
この時期の終り頃から前期にかけて、世界的な気候の温暖化により海面が上昇し、東京湾の海水が荒川低地や中川低地を沈めた。その海面は、現在の標高三~六メートルのレベルにまで達した。この海水の陸地への浸入を縄文海進と呼び、この海進時の水域を奥東京湾と呼んでいる。この海水が北本市域の荒川低地や赤堀川沿いの低地にまで達していたかどうかは、まだ明らかにできないが、潮の干満の影響が市域の河川や沼に及んでいたことは確実であろう。北本市南端に接する桶川市川田谷にはかつて谷津貝塚があったことが確認されており、それをうらがきするものである。宮岡Ⅱ遺跡のように前期の遺跡が今後低い所にも発見される可能性もある。住居は数軒くらい集住するようになり、所によっては環状集落さえ形成された。また、土器の胎土には植物質の繊維を混ぜて製作することが普及した。
縄文中期は、今から四、五千年前の頃で、各地に大きい集落が出現する時期であった。この時期の土器を出土する遺跡は、市内に三七か所と最多を数えるが、桶川市の高井遺跡のような大集落跡はまだ発掘されていない。この時期の土器は、豪壮な文様で飾った厚手の大形深鉢が多い。これは食糧の貯蔵などが容易になって、生活が安定していたことを物語るものであろう。
中期の終り頃から後期の初頭にかけての遺跡が多いのも、北本地方の縄文遺跡の特色といえよう。土器でいうと、中期末の加曽利(かそり)E式から後期初頭の称名寺(しょうもようじ)式にかけての時期であるが、その背景が何であったかはわからない。
後期から晚期にかけては、大宮台地の北部においては遺跡が極端に減少する。これは、大宮台地の南部や東部へと集落が立地移動したためではないかと考えられる。桶川市の後谷(うしろや)遺跡や大宮市の寿能泥炭層(じゅのうでいたんそう)遺跡、岩槻市の真福寺泥炭層遺跡などがその好例で、この地方から出土する安行(あんぎょう)式土器、みみずく土偶(どぐう)、透し彫りの土製耳飾に代表される安行文化圏は、大宮台地を中心に関東地方一円に影響力をもっていた。高尾の宮岡氷川神祉前遺跡は大宮台地北部の中心的な遺跡と考えられ、土製耳飾の優品が多数出土した。この遺跡は、樹枝状谷の谷頭の湧泉に臨んで営まれた遺跡であるが、湧泉の周囲には木製品などを包蔵する泥炭層が存在するものと考えられる。この遺跡から出土した大洞(おおぼら)A式土器(東北地方系)は、当地方の縄文終末期から次の弥生時代へ移行する時期の数少ない資料である。
弥生時代は、今から二三〇〇年前にはじまり、一八〇〇年前で終わった。この時代を特色づけるものは、本格的な稲作・金属器使用・弥生土器の製作・紡織などである。この文化は、西日本に早く発達して東進し、埼玉県地方の北部・西部・南部へは前期や中期前半に伝播してきたが、大宮台地への到来はやや遅れたようで、いまののところ中期中葉以前の遺跡は確認されていない。市内の弥生遺跡としては、江川流域と赤堀川流域に合わせて三か所確認されているのみである。いずれも水田耕作に適する低湿地を近くに控えている。
弥生時代から古墳時代初期の遺跡は、江川や赤堀川流域に分布するが、それ以後へは継続しないようである。
古墳時代の前期から後期にかけての集落跡および古墳は、荒川流域の台地上に多数確認されている。古墳時代の文化・政治の大きな流れは高尾・石戸地域から漸次東へ波及したことが推察される。当時の土器には、土師器(はじき)と須恵器(すえき)があり、鬼高(おにたか)式期のものが多い。古墳は、埴輪を伴う六、七世紀のものが北袋・高尾地区と八重塚地区に群在しており、それぞれ北袋古墳群・中井古墳群・阿弥陀堂遺跡・八重塚古墳群と命名された。これらの大部分は円墳と推定されているが、北袋古墳群の中には、前方後円墳とみられる地膨(ぢぶく)れ地形がある。この時期は、辛亥(しんがい)銘鉄剣を出土した埼玉(さきたま)古墳群の年代とほぼ同じであるうえ、南北約一一キロメートル離れている程度でもあり、埼玉政権ともなんらかの影響圏にあったと推測される。出土する埴輪については、製作地がどこであるのか特定できることを期待している。
奈良・平安時代の遺構については、荒川流域で二、三の調査例はあるものの顕著な遺跡はまだ発掘されていない。当時期の集落跡の絶対数が少ないのか、調査が未徹底なのか判然とせず、今後の精査がまたれる。この地方は、当時、行政的には稲直(いなお)郷または餘戸(あまるべ)郷の範囲下に置かれていたことであろう。
表1 北本市周辺における土器形式編年表と市域の主な遺跡
年代 | 時代 | 時期 | 北本市周辺における土器型式 | 流入した地域外の土器型式 | 荒川沿岸の主な遺跡 | 江川流域の主な遺跡 | 赤堀川流域の主な遺跡 |
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旧石器時代(先土器) | (ナイフ形石器) | ||||||
(尖頭器) | 宮岡1、八重塚A区、B区、諏訪山南、八重塚C、D区 | ||||||
(細石器) | 榎戸1 | ||||||
BC10000 | 縄文時代 | 草創期 | 隆線文系 | ||||
爪型文形 | 宮岡氷川神社前 | ||||||
多縄文系 | |||||||
7000 | 井 草 Ⅰ | ||||||
〃 Ⅱ | 石戸城跡、宮岡Ⅱ | 榎戸Ⅰ | |||||
夏 島 | 宮岡Ⅰ、宮岡Ⅱ | ||||||
稲荷台 | |||||||
稲荷原 | 宮岡Ⅱ | ||||||
花輪台 | |||||||
早期 | 三 戸 | ||||||
田戸下層 | 石戸城跡 | 東谷足Ⅰ | |||||
田戸上層 | |||||||
子母口 | |||||||
野 島 | 石戸城跡、横田薬師堂北、市場Ⅱ | ||||||
鵜ヶ島台 | |||||||
茅山下層 | 宮岡Ⅱ、市場Ⅱ、阿弥陀堂 | 榎戸Ⅰ | |||||
茅山上層 | |||||||
下吉井 | |||||||
(十) | 城中Ⅳ | 東谷足Ⅰ | |||||
4000 | 前期 | 花積下層Ⅰ | 宮岡Ⅱ、石戸城跡、北袋古墳群Ⅰ | ||||
〃 Ⅱ | |||||||
二ツ木 Ⅰ | |||||||
〃 Ⅱ | 宮岡Ⅱ | ||||||
関山Ⅰ | 宮岡Ⅱ、横田 薬師堂北 | ||||||
〃 Ⅱ | 宮岡Ⅱ、市場Ⅱ、横田薬師堂北 | ||||||
〃 Ⅲ | 宮岡Ⅱ、石戸城跡 | ||||||
黒浜 Ⅰ | |||||||
〃 Ⅱ | |||||||
〃 Ⅲ | |||||||
諸磯a | 阿弥陀堂 | 榎戸Ⅰ | |||||
〃 b | 浮島Ⅱ | 北袋古墳群Ⅰ、石戸城跡 | 両大師裏 | ||||
〃 c | 石戸城跡、中井 | 東谷足Ⅲ | |||||
十三菩提 | 籠畑Ⅱ | 宮岡Ⅰ、石戸城跡 | |||||
3000 | 中期 | 五領ヶ台 | 下小野 | 阿弥陀堂 | 東谷足Ⅰ、東谷足Ⅱ、東谷足Ⅲ | ||
阿Ⅰ勝Ⅰ | 曽利 | 北袋古墳群Ⅰ、石戸城跡 | デーノタメⅠ、勝林 | ||||
玉Ⅱ Ⅱ | |||||||
台Ⅲ坂Ⅲ | |||||||
加曽利E Ⅰ | 北袋古墳群Ⅰ、石戸城跡 | デーノタメⅠ、下石戸下、北本宿 | |||||
〃 E Ⅱ | 石戸城跡、宮岡Ⅱ、八重塚A区 | 下石戸下、東谷足Ⅰ、北本宿 | 下原、雑木林 | ||||
〃 E Ⅲ | 宮岡Ⅱ、八重塚A区 | 下石戸下、東谷足Ⅰ、榎戸Ⅰ、台原Ⅱ | 下原、雑木林、上手、上手Ⅱ、堀米Ⅱ | ||||
〃 E Ⅳ | |||||||
2000 | 後期 | 称名寺Ⅰ | 北袋古墳群Ⅰ | 榎戸Ⅲ、台原Ⅲ | 原、上手 | ||
〃 Ⅱ | 横田薬師堂北、北袋Ⅶ、八重塚A区 | 上手 | |||||
堀之内Ⅰ | 宮岡Ⅱ、横田薬師堂北 | 榎戸Ⅲ | 原 | ||||
〃 Ⅱ | 城中Ⅱ | 上手Ⅱ | |||||
加曽利B 1 | 宮岡氷川神社前 | ||||||
〃 B 2 | |||||||
〃 B 3 | |||||||
曽谷・高井東Ⅰ | 宮岡氷川神社前 | ||||||
安行Ⅰ・〃Ⅱ | 宮岡氷川神社前、宮岡Ⅰ | ||||||
〃 Ⅱ・〃Ⅲ | 宮岡氷川神社前 | 榎戸館跡 | |||||
1000 | 晩期 | 安行Ⅲa | 宮岡氷川神社前 | ||||
〃 Ⅲb | 大洞B-C | 宮岡氷川神社前 | |||||
〃 Ⅲc | 〃 C1 | 宮岡氷川神社前 | |||||
〃 Ⅲd | 〃 C2 | 宮岡氷川神社前 | |||||
千 網 | 〃 A | 宮岡氷川神社前 | |||||
荒 海 | |||||||
BC300 | 弥生時代 | 中期 | (十) | ||||
須和田 | |||||||
宮ノ台 | 石戸城跡 | ||||||
後期 | 久ケ原 | ||||||
弥生町 | 東谷足Ⅱ | ||||||
前野町 | 欠山 | 石戸城跡、八重塚A区、北袋Ⅶ | 榎戸Ⅱ | ||||
AD300 | 古墳時代 | 前期 | 五領Ⅰ | 石戸城跡、諏訪山北 | 東谷足Ⅲ、榎戸Ⅱ | 上手 | |
〃 Ⅱ | 庚塚Ⅰ | ||||||
400 | 中期 | 和泉Ⅰ | 宮岡Ⅱ、八重塚B区 | ||||
〃 Ⅱ | |||||||
500 | 後期 | 鬼高Ⅰ | 宮岡Ⅰ、宮岡Ⅱ、北袋古墳群Ⅰ、Ⅱ | 雑木林 | |||
〃 Ⅱ | 中井1、2号古墳、阿弥陀堂、八重塚古墳群、諏訪山南 | ||||||
710 | 奈良時代 | 真間 | 台原Ⅱ | ||||
794 | 平安時代 | 国分 | 宮岡Ⅰ、八重塚D区 | 台原Ⅱ、榎戸Ⅱ | 中上手Ⅰ、谷足Ⅰ | ||
宮岡氷川神社前 | 堀米Ⅱ | ||||||
1,192 | 鎌倉時代以降 | 堀ノ内館跡、石戸城跡、諏訪山南 | 上手、中上手Ⅱ |
(註)1.考古学上の年代期は、放射性炭素測定によった。
2.縄文時代草創期と早期の境については、多縄文系と井草Ⅰの間におく考えがふえてきた。