北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第1節 荒川沿岸の遺跡

荒川左岸地域に点在するいろいろな遺跡は、いずれも沖積面との比高差が大きい台地上に営まれており、市域東端の赤堀川右岸地域の諸遺跡とは、立地景観が著しく異なっている。
北本市は、大宮台地の北端近くに位置している。大宮台地は、西側に荒川(旧入間川)が開析した深い谷が横たわり、東側に中川の低地が広がって独立した台地である。大宮台地は関東造盆地運動により、台地の長軸方向の南に傾斜するのではなく、東南方向に振れて傾斜している。そのため、西側の台地縁辺部は鋭く浸食され、沖積面と台地上と比高差は十五メートルにもなり、かつ、急崖をなしている。西側に比し東側は、浸食は弱く、台地端部での比高差は二〜五メートルと、所によって沖積地から台地を望む景観が微高地風を呈している。また、大宮台地を標高で見ると、北本市の西北部辺りが最も高く三十一メートル台である。大宮市あたりで十八メートル台と中だるみとなり、鳩ケ谷市あたりで再度三〇メートル台となっている。この三〇メートル台の地域に下末吉ローム層が存在することが確認された。標高の高い主因となっているのである。
北本市域の遺跡の分布は、西側の荒川沿岸、中間の江川縁辺、東端の赤堀川右岸の三地域に集中している。荒川沿岸のいろいろな遺跡は、台地の縁に集中し、江川縁辺の遺跡集中地域との間は空白地帯となっている。荒川沿岸の遺跡をもう少し微視的に眺めると、すべての遺跡は浸食により樹枝状に発達した支谷の周囲に位置している。最も奥に位置する遺跡ですら、小支谷の谷頭を見下ろして占地しているのである。荒川の谷に直接面している遺跡もあるが、多くの遺跡が小支谷と係わっていることを念頭に置くと、荒川に直接面している遺跡も、もう一方で接している小支谷との係わりで占地したことがうかがえるのである。
いつの時代も、人が生きていくうえで欠かせないのが「水」である。生活を営む場所は、水の得やすい所に占地するのが常である。先述した空白地帯は、水が得にくい地帯であるがゆえに、生活を営むには不適な地域であった。「高尾」の地名は、高くなった土地を意味する「タコウ」に由来するとの説もある。地名は古代〜中世にかけて生れたものであるにせよ、高い土地、すなわち水の得にくい土地を意味して象徴的である。
縄文時代には、堅果(けんか)類や根茎(こんけい)類の採集、あるいは猟場として広い台地を活動の埸としたであろうし、集落がもつ領域として大切な後背地であったろう。また、魚撈(ぎょろう)を代表に、荒川本流や沖積低地とのかかわりも、強くもっていたはずである。それでもなお日常生活の拠点としては、小支谷との係わりを強く保持できる小支谷の縁辺に、集落を営んだのである。荒川の沖積低地は氾濫原(はんらんげん)である。近世に至っても”流作場(りゅうさくば)”が多い。弥生時代の水稲耕作も、小支谷でなされていたであろう。台地の奥へ開発を働きかけるのは、奈良時代から平安時代になってからのことである。
台地上で生活を営んだ人々は、台地の下の湧水地点まで、日に何度も水を汲みにおりたことであろう。そして甕の水をこぼさないように、注意深く一〇~一五メートルの急な坂道を、ゆっくりゆっくりのぼってくる毎日ではなかったろうか。

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