北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第1節 荒川沿岸の遺跡

宮岡Ⅰ遺跡 (大字高尾字宮岡)
遺跡は、東から西の荒川に向かって短く浸食された支谷の北側の台地上に位置している。台地の北側にも小さな谷が入り、台地西端は舌状を呈している。遺跡中央部の標高は三〇・二メートル、南側の谷の沖積面が十六・四~十八・三メートルで比高差は十四~十二メートルである。遺跡の広がりは東西五四〇メートル、南北一七〇メートルである。東側の遺物散布は希薄で、中心は台地の先端の方になろう。北側の小支谷を挟んで阿弥陀堂遺跡と対峙(じ)し、南側の谷を挟んで宮岡Ⅱ遺跡と対峙している。旧石器時代から平安時代の複合集落跡である。
遺跡の中央を南北に貫通する農免道路建設工事に伴って、昭和四十六年二月二十九日~三月二日、平安時代の住居址を一軒発掘調査した。

図42 宮岡Ⅰ遺跡位置図

旧石器(写真19)

写真19 宮岡Ⅰ遺跡出土旧石器剝片

黒耀(こくよう)石の剝片、全長四・四センチ、幅二・一センチである。調整加工も使用痕もないが、旧石器時代の剝片である。
縄文土器(図43——1~12)

図43 宮岡Ⅰ遺跡出土遺物実測図及び拓影図

1は草創期の撚糸文(よりいともん)土器。小片で撚糸Lを施文している。
2は前期の花積下層(はなづみかそう)式。胎土に多量の繊維を含有している。口縁の外面はほぼ平らで、内側は膨らみがあり、全体としては外反している。LRの縄文を縦位と横位に回転し、羽状縄文を施文している。3・4は前期末に長野県地方に主分布域がある籠畑(かごはた)Ⅱ式である。3は胎土に石英粒その他の石粒を多く含んでいる。色調は淡褐色を呈している。硬質な感じがする焼成である。半截(はんさい)竹管による縦位の条線と、三角形の沈刻による文様を施文している。4は口縁部が内湾するキャリバー形に近い深鉢。口縁は短く外反し、内側は「く」の字に屈曲している。器壁厚は八~九ミリ、胎土に微細な石英粒、黒雲母片を含有している。色調は黒色を呈し、ススが付着している。内面は黒褐色を呈している。文様はまず、器面全体に、両端に結節のある無節の縄文Lを縦に冋転施文している。縄文原体幅は一・七センチで、右端は撚り終えたLを「ひとえ結び」に結んでいる。左端は二本の0段のうちの一本を使って結んでいる。結びは軸縄に直交せず、カーブを描いて縛っている。そのため、右端の圧痕は太めで半円に近い圧痕となり、左端は不鮮明な孤状を呈している。半截竹管による平行沈線を口唇直下に一本、口縁の内湾屈曲部に一本、頸部に二本めぐらしている。同一施文具で口唇直下の沈線と湾曲部の沈線の間、及び湾曲部の沈線と頸部の沈線との間を縦の沈線を入れ、所々区切っている。湾曲部と頸部の間はさらに、断続する平行沈線を横位に施している。所々に地文となった縄文が残っている。頸部直下は、やはり同一施文具で右傾する平行沈線を一センチ前後の間隔で施文し、次いで左傾する平行沈線を五センチ間隔ぐらいで施文し、全体で鋸歯状の趣を強くしている。鋸歯状の山形頂部から、同じ平行沈線を二~三センチ垂下している。最後に、口縁の湾曲部に粘土紐を半円状に貼付している。なお、破片の右上端には補修孔を一つ穿っている。
5は中期の加曽利E式。口唇部を欠失した口縁部片で、外面は直線で「く」の字に屈曲するが、内面は湾曲しており、キャリパー形の口辺部を呈する。隆起帯と沈線で文様を施文している。
6~8・11は後期の堀之内式。6は粗製土器で縄文LRを施文している。7は薄手のやや湾曲した破片で、塊形土器であろう。縄文はRLで細い単節縄文である。沈線を横位にめぐらし、上部を磨消している。8・11は沈線による文様を施文している。9~10・12は安行式。12は紐線文系の土器C 9・10も粗製土器である。
土師器 (図43ー13~15)
13は推定口径一〇・九センチの小形塊形土器である。胴下半を削りだしている。古墳時代の鬼高式。14・15は糸切り底、平安時代の国分式土器である。
須恵器 (43-16)
蓋。約三分のーが遺存している。推定径一七・二センチ。全高三センチである。ロクロによる調整である。つまみ部は偏平で、径三・四センチ。口縁の内側はほとんど立たない。
一号住居址
平面形は長方形を呈している。規模は東西四・五メートル、南北三・六メートルである。各壁は、わずかに胴が張るとともに、コーナーは軽く隅丸である。壁高は約三〇センチで、壁はほぼ垂直である。主軸の方向は短軸方向にあり、Nー42°ーEである。北壁中央よりわずかに東によってカマドを付設している。粘土を主体として構築しており、袖の幅約九〇センチ、全長約一・五メートルである。袖の中に芯はなく、支脚も認められなかった。長時間使用したらしく、熱を受けた部分は硬くレンガ状に焼けている。カマドの中から長甕形土器一個体分の小破片が出土した。これはカマドの中にすえ置いた土器がつぶれたものであろう。カマド付近の床面に灰を含んだ層があった。カマドの灰を搔き出したものであろうか。カマドの主軸の方向は Nー16°ーE である。カマドの右手に貯蔵穴がある。径五〇センチ、深さ四〇センチの不整形である。遺物はカマドから貯蔵穴にかけて集中して出土している。カマド右袖部から壁に接して幅二二センチ、高さ十五センチの段状に一部高くなったところがある。棚的性格を有するものであろう。柱穴は南壁によって二個検出された。双方とも径二四センチ、深さ三〇センチである。
出土遺物は土師器、須恵器、刀子(とうす)片である。

図44 宮岡Ⅰ遺跡1号住居址位置図

図45 宮岡Ⅰ遺跡1号住居址実測図(1)

写真20 宮岡Ⅰ遺跡1号住居址

土師器 (図46ー1~4)
1・2は甕形土器である。1はカマドの内から出土したもので非常にもろい。口縁部に輪積の痕跡を残し、肩部にかけては粗い整形時の擦痕があるが、内面は横ナデによって整えられている。2は小型の甕でやや直立気味の口縁部である。3は甕形土器の底部で、薄く仕上げられ、へラ削り痕が稜(りょう)として残っている。三点とも胎土・焼成とも良好である。4は坏形土器。内湾しながら立ちあがる口縁を有し、内面はなめらかに整形している。外面はかなり不ぞろいで底部は指圧によるへこみで部分的に凸凹している。
須恵器坏 (図46ー5~11)
第一類(5・6)底部の整形が糸切りの後、全面へラで整形したものである。へラ整形時に胎土中の砂粒の移動した痕が同心円を描くことからロクロの上に器体を置いて整形したものである。
第二類(7・8)糸切りの後、底部周辺部のみをへラで整形したもので、この時器体はロク口上に置かれ、一類と同様の痕跡が同心円を描くものである。
第三類(9・10)糸切りの後、へラで底部全面を整形している。整形痕は方向の異なるものがあり、器体を手に持って整形している。
第四類(11)糸切りによって底部を切り離し、へラによって周辺部を整形している。底部周辺のつくりが、胴部から底部へ移行する部分に稜を持たず、丸味をおびて碗の官を抱かせる点が二類と異なっている。

図46 宮岡Ⅰ遺跡1号住居址出土遺物実測図

刀子(2)カマドの付近から出土した。刃先の一部と茎を欠いている。
これらはいずれも国分式土器である。5は口縁部の割れた坏を二次加工し、墨溜めとして使用したものである。
文献 塩野博、駒宮史朗「宮岡Ⅰ遺跡発掘調査概要」北本市文化財調査報告書第三集昭和四八年四月北本市教育委員会刊
(一号住居址の項は右文献の抄録である)

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