北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第1節 荒川沿岸の遺跡

宮岡氷川神社前遺跡 (大字高尾字宮岡)
遺跡の位置と環境
宮岡氷川神社前遺跡は、北本市における位置からいうと、市域の西部にあたり、JR高崎線「北本駅」の西北西ニ一〇〇メートルの地点である。ここには、氷川神社と須賀(すが)神社があって、境内を接して鎮座している。氷川神社は南を向いて鎮座し、須賀神社は東を向いて鎮座しており、この遺跡は両社のちょうど前面に位置している。
地形的には、北足立台地の北西部に位置し、荒川の左岸にあって、荒川に通ずる開析谷の谷頭部に立地している。この支谷は、南の荒井地区や石戸宿地区に見られる支谷と同様に、狭長で深いのが特徴である。その規模は、長さ約六〇〇メートル、幅一〇〇メートルで、台地面との比高は九〜一三メートルを測る。そして、支谷の断面はU字形をなして、谷壁は急斜面となっている。支谷の向きは東から西に向かってさがっており、谷尻は、荒川の沖積地に接続している。遺跡から荒川の流路までの直線距離は七〇〇メートルである。

図53 宮岡氷川神社前遺跡位置図

この支谷の谷頭は三つに分裂して台地を浸食しているが、この遺跡が臨む谷頭が最も奥部に侵入している。
この谷頭部には、強力に湧出する湧水があって、池(湧泉と呼んだ方が適切か)が形成されている。池の大きさは径二〇メートルほどあって、中には島を築いて、弁天様を祀る一間社(いっけんしゃ)の祠がある。池の水深は、現在約一メートルを測るが、以前は二メートルもあり、湧水量も多<、青く澄んでいたという。池には、ヒキガエル、ウナギ、ドジョウ、コイ、フナなど棲み、とくに春先のヒキガエルの繁殖期には、気味が悪くなるほどたくさんのヒキガエルが集まってくる。
この湧水は、主として荒川の中流域で伏流となって、北足立台地の下層の砂礫層を流れてくる地下水であり、水温の季節的な変化は少なく、冬季で十五度、夏季でも十六度前後である。したがって冬季に野水や荒川本流の水温が低下すると、ウナギやドジョウおよびコイ科の魚族が集まってくるし、夏季には、水温の上昇を好まないコイ科の魚族もがさかのぼってきた。
おそらく、縄文時代の晩期のころにもこの池はあったのであろう。よしんばないにしても、湧泉はあったことはまちがいないであろう。この遺跡の立地については、この池あるいは湧泉が、遺跡を営んだ人々の生活にかかわりの深い存在であったことは容易に察せられる。それは、この支谷には他にも居住地に適する場所があるにもかかわらずあえて池のある谷頭部を選んでいることからもうなずけるところである。
遺跡は、台地の奥に侵入している谷頭部を抱くように囲繞(いぎょう)している。遺物の散布範囲は、氷川神社の前面および南東の栗園まで及び、西側は須賀神社の周辺にひろがっている。散布地の地形は、谷頭部に臨む台地の縁辺であり、谷頭に向かってわずかに傾斜しているが散布地の大半は台地上の平面である。遺跡の標高は三十〜三十一メートル、池の水面との比高は九メートルの差がある。
遺跡に立って四方を見渡しても、眺望はほとんどきかない。それは、台地の内部にいりこんでいること、平坦部が広いためなどであり、支谷の谷尻の方を望んでも、側谷に繁茂する樹木に阻まれて視界は遠くまで届かない。縄文時代の晩期の植物相がいかなる様態を呈していたか明確にはわからないが、現在よりもイネ科植物が多く繁茂していたとしても、視界が狭いことは、現在ともあまり変らなかったであろう。この点は、本遺跡における特殊性なのか、縄文晩期の遺跡にも普遍的にいえることなのか、今後注意を要する問題である。
台地を形成する地層は、基層に下末吉層とみられる黄褐色の砂質粘土層があり、その上に武蔵野ローム層が二・五メートル、立川ローム層が一・五メートルあり、表土(黒色土)が五〇センチ被さっている。なお、農耕地では、荒川の氾濫土が肥沃ということで、客土した土が三〇センチ前後ある所が多い。この土は昔から馬の背につけて運んできたものと言われている。
現在の土地利用を見ると、台地上は桑畑、野菜畑が多く、支谷や荒川の河川平野は水田や麦畑となっている。しかしながら、支谷の斜面や谷頭部にはまだ、自然林が残存している。この自然林は、ケヤキ、クヌギ、ナラ、エゴノキ、クリなどが主体をなし、アカマツ、スギなどの針葉樹も若干交じっている。カシやツバキなどの照葉樹は少なく、したがっておおむね温帯性濶葉樹林が卓越的である。
この付近の林野に棲息する哺乳類は、現在ではノネズミ、ハタネズミ、アカネズミ、モグラ、ノウサギ、イタチ、コウモリなどであるが、昭和初年の頃までは、キツネ、タヌキなどの獣類も棲息していたといわれる。
鳥類では、キジ、カケス、ツグミ、キジバト、モズ、オナガ、ムクドリ、サギ、ウズラ、カモなどが大きい鳥として棲息または飛来してくる。

図54 宮岡氷川神社前遺跡全測図

遺 構(詳細はクリックしてご覧ください)
 第一次調査地点の遺構
今回の調査は、トレンチ方式によるトレンチ内の発掘に限定されたが、そのトレンチにあらわれた遺構としては、つぎのようなものがある。
Aトレンチ第一区の西半分にあらわれたのは、住居址であろう。地表より深さ八〇センチの所に厚さ一〇センチの真黒い腐植土があり、この下にはローム層の堅い面がある。このロームの堅い面はおそらく住居址の床面であると思われる。だとすれば真黒い腐植土は住居址の覆土ということになる。ここからは縄文後期と思われる厚手の土器片が出土している。
Aトレンチ第三区から九区にかけて、表土の下に黒色土が横たわっていたが、このうち三区から八区にかけて、とくに土の色が黒味を帯びており、安行式土器、土製耳飾、すり石、石斧などが多出した。したがってこの層は安行式期のいわゆる遺物包含層であるが、この下の暗褐色土層からもほぼ同様の遺物が出土している。また七区の暗褐色土層中から検出された焼土を掘りあげていったところ、ローム層を掘りくぼめている炉跡となった。
この炉跡は、長径二三〇センチ、短形一五〇センチをした略菱形を呈するプランをもち、ローム層を四六センチ掘りくぼめている。底はゆるやかな丸底をしている。炉壁は赤く焼けかたまっており、炉内には焼土が六〇センチの厚さにたまっていた。炉跡の近くから磨製石斧、土偶破片、石屑多数が発見された。
前述の遺物包含層とこの炉跡の関係について追求するため、Bトレンチ、Cトレンチを増設してみた。Bトレンチの道路寄りでは遺物包含層が薄くなっていた。炉跡はおそらく住居址に伴うものであろう。そして、遺物包含層は住居址の覆土ではあるまいかと思われる。しかし、遺物包含層の下には床面は確認できなかったし、卜レンチ内で壁の立ちあがりは見つからなかった。
 第二次調査地点の遺構
土層の堆積層序は、客土(荒川の河川敷の氾濫土)、黒色土層、ローム漸移層、ローム層であり、きわめて単純な層序を示している。地表は、東から西に向かって(谷頭方向)わずかに傾斜しているが、グリットの断面を観察すると、この傾斜はローム層ではほとんど見られず、ローム漸移層から上でより著しい。
遺物は黒色土から漸移層にかけて包含していたが、黒色土は安行ⅢC式土器を主体とする包含層である。ローム漸移層は暗褐色土層(上)と褐色土層(下)に細分できそうであり、暗褐色土層中からは安行Ⅱ式・加曽利E式などが出土し、褐色土層中からは加曽利E式土器が出土した。
溝遺構
この遺構は、最初F4(グリットを示している。)で発見された。漸移層まで掘り下げたとき確認されたものである。溝内には黒色土にローム粒がまじった土がうまり、小さく破砕された安行ⅢC式の粗製土器が出土した。
この溝のロームに切り込んでいる規模は、幅五〇〜一〇〇センチ、深さは深いところで四五センチで、底は丸味をもっている。この溝を追求したところ、北西方向に進み、G2で一旦ローム面では途切れるが、H1で再びローム面を掘り込んで道路敷へと伸びている。東方は、F6、D6で北東方向にまがり、F8の竪穴遺構内で途切れている。竪穴遺構との時間的前後関係は、竪穴遺構の底面を溝が切っているので溝の方が新しいことは確実である。
またF6、 F7、D7については、溝の上に焼土が五〜一〇センチの厚さで置かれていた。焼土は溝が埋まったのちに投げこまれたもののようで、したがって、溝の方が焼土よりも古いことは確かである。
溝の時期については、溝内出土の土器が安行ⅢC式であること、焼土中の土器も同式であることから安行ⅢC式期ないしはそれより以前の所産になるものと考えられる。
溝の用途については、確実なことはわからないが、溝が谷頭に向かう低い場所(谷筋の延長線上)を走っているところから、何らかの排水溝の蓋然性もある。
焼 土
焼土は、二か所に検出された。すなわちE4、E5、F4、F5にまたがる焼土とE6、E7、D7にまたがる焼土である。前者は一三〇×一〇〇センチの広さに、後者は四〇×二七〇センチのひろがりをもっている。両者とも焼土と言っても赤土ばかりでなく黒色土も混入している。また断面を切ったところ、焼土下に黒色土層が一層はいり込み、特に焼けた面は検出できなかった。溝の上に捨ておかれたという感じも両者に共通である。別の場所で焼けた焼土を運んできて捨ておかれたという感じである。
焼土中及び焼土近くからは、安行Ⅲ式土器・土製耳飾・石鏃・石皿などが出土している。
竪穴遺構
この遺構はF7、F8で確認された溝を追求していくうち、F8において検出されたものである。溝と遺構の関連は第59図の通りである。プランは東西の壁がかろうじて残存しているのみで、東西径約二・二〇メートルを測る。また、南北径はG8、E8において、その上面の土層が攪乱(かくらん)し、溝によって荒らされており、その境界を正確に把えることは出来なかったが、推定約三・二〇メートル程の規模を有すると考えられる。ピットは遺構プラン内で十一本検出されている。(表2参照)また、遺構プラン外でも二本検出され、全てローム層面からの掘り込みであるが、プラン内外におけるピットの相関性は不詳である。
溝はE8およびF9の境周辺で消滅し、この遺構は、溝の下部の土層(ローム面)より検出されているため(溝の切り込み面はローム漸移層である)溝よりもさらに古い時期に構築された遺構と考えられるが、遺構内よりは炉も、焼土跡も残存せず、また、遺構を構築した時期を決定するに足る遺物も検出されていないため、その性格、構築時期に関しては不詳であった。

図55 宮岡氷川神社前遺跡第1次調査地点全測図

図56 宮岡氷川神社前遺跡第1次調査地点炉跡実測図

図57 第1次調査地点Aトレンチ西壁土層断面図

図58 第2次調査地点土層断面図

図59 第二次調査地点溝および竪穴遺構実測図

表2 第2次調査地点竪穴遺構ピット深度計測値

遺 物(詳細はクリックしてご覧ください)
土 器
宮岡氷川神社前遺跡の第一次、および第二次の発掘調査によって得られた土器の総量は、リンゴ箱で一〇箱分に相当する。そのうち第一次が四箱分、第二次が六箱分である。
土器の種類は、縄文式土器がほとんどで、極少数の土師器(全部で五片)が含まれている。縄文式土器は、中期に属するものも若干あるが、九五%以上は後期末葉から晩期前葉にかけての、いわゆる安行式系の土器類である。
これらの土器類は、第一次調査地点と第二次調査地点のものとでは、時期、様相に幾分か相違がみられるので、地点別に分類し、記述することにした。
  第一次調査地点出土の土器
 第一類土器(図60ー1~4)
この類の土器は、中期の加曽利E式に属するものである。出土層位は1・3・4が晩期の包含層の下の暗褐色土層から、2は炉中からそれぞれ出土したものである。1は、隆起線と太い沈線およびRLの縄文からなる土器で、加曽利EⅡ式の古い時期のものであろう。2は、ゆるい波状の条線文を施した土器で、加曽利EⅡ式に属するものであろう。なお、3は堀之内式にも見られる文様であるが加曽利EⅢ式に位置づけてもよいであろう。4は甕形土器の口縁部で、退調した隆起線とRLの縄文からなっている。加曽利EⅢ式に比定できよう。
 第二類土器(図60-5~6)
両者とも口縁部の破片で、口唇が内外に肥厚している。6の内面には口縁下に一条の太い沈線が走っている。色調は褐色を呈し、焼成は良好できわめて堅い。文様は、あらい条線を格子状に引搔いている。外面はざらついているが、内面は研磨されている。この類は後期の堀之内式に属するものと考えられる。
 第三類土器(図60-7~9)
7は鉢形土器の波状口縁部で、口縁に沿って二条の沈線が走り、その下側には刻み目を付けた隆起線が走っている。そして隆起線で囲まれた部分には、二本一組の沈線がジグザグ状に描かれている。8は鉢形土器の下胴部の破片で、綾杉状に短い沈線が刻まれている。9は粗製の甕形土器で、口縁は波状の鋸歯状になっており、器面には、整形の指圧痕がのこっている。また煤が多量に付着している。この類は、加曽利BⅡ式に属するものと思われる。
 第四類土器(図60ー10~23・図61ー1~24)
この類は一般に紐線土器といわれる粗製土器のグループである。口縁が隆帯状に肥厚するものがほとんどで、この隆帯部には、指頭圧痕または、爪形文もしくは、三角文を連続させている。この紐線を胴部にめぐらしている例もある。地文はいわゆる篦擦痕で、横位、縦位、斜位にそれぞれ平行して描かれているものが多い。器形は、口縁部が内湾する深鉢形が多い。第二次調査地点出土の土器では第六煩に分類されている。時期は、安行Ⅱないしは同Ⅲa式に属するものであろう。図60の16などはⅡ式の古い要素をもち、17・20・22、図61の12〜14などのように、二本を単位とする沈線の間に連続刺突する手法などはⅢa式の新しい要素であろう。
 第五類土器(図62ー1〜21)
この類は、典型的な帯縄文とともに刻み目のある瘤起ないしは双指押瘤、単瘤を有し、なおその縄文の撚りがRLであることを特色とする精製土器のグループである。器形は、ほとんどが深鉢形であるが、6・9は注口土器である。帯縄文の代わりに、7や15のように連続爪形文を施したものもある。帯縄文の両脇の沈線は、太くて雜な感じのする平行するものが概して古く、曲線状になったり、窓枠状につながるものが概して新しいものと把えてよいであろう。色調は、暗褐色、暗紫褐色のものが多く、次いで黒褐色、黄褐色のものもある。焼成は良好で堅く、大部分のものが、無文帯を研磨し光沢を帯びている。出土層は、第四類土器と同様に黝黒(ゆうこく)色土中である。型式的には、安行Ⅱ式の主調であり、若干Ⅲa式が含まれると解してよいであろう。第二次調査の土器では第四類に分類されている。
 第六類土器(図63-1~18・20・23・図70-2)
この類は、帯縄文というよりは、磨消縄文がよく発達した精製土器のグループであり、第五類と比べると、弧線文や三叉文が新たに出てきたことおよび縄文原体の撚りがLRであることなどが異なっている。器形は、深鉢形また浅鉢形をなすものであり、色調は黒褐色、黄褐色のものが多い。器面の無文部は研磨された弧状空間が多い傾向がある。以上のような観点から、この類は安行Ⅲa式を主調とするものと考えられる。
 第七類土器(図63-21・22・図64-1~10)
この類は、磨消縄文、原体LRの縄文、弧線文においては、第六類と変らないが、異なる点は、沈線で円を描いた文様があること、弧状沈線の先が二又に分れているものがあること、沈線に入組みがあらわれてきていること、および三叉文が多く使用されていることである。また、図64のように縄文をたてに回転させているものがあるのも新味である。さらにまた図63の21や図64の6のように沈線間に連続刺突文を施しているものもある。色調は、暗褐色、淡褐色を呈し、両面を研磨しているものが多い。器形は深鉢または注口土器であろう。型式的には、安行Ⅲa式から同b式にかけてのものと推察される。
 第八頰土器(図65-1~14・図70-3)
この頰は、無文の粗製土器で、1・2・7は浅鉢であり、他は深鉢もしくは壺形である。浅鉢形土器は口縁部が内側に肥厚している。深鉢形土器は、口縁部の肥厚するもの(5・6・8・10)と、肥厚しないものとに分けられるが、みな内傾している。5は肥厚しているといっても、折返し口縁のものである。器面は9や11・12のように指圧痕の顕著に残るものや、8のように擦痕がみられるものがあり、そのほかのものも全部ざらついて いる。このざらつきは、胎土に多くの砂を含んでいるためでもある。色調は淡褐色または、黒色を呈し、3・8・14には煤が付着している。11は炉中より出土したものである。この無文土器群は、煤が付着しているもの、炉中より出土したもの、その他のものもほとんどが、二次的な火焰を受けているところから、煮沸用器として供せられていたものと推考される。時期は、かなり長い時期にかけてのものと考えられるが、安行Ⅱ式から同Ⅲ式に至るものとして大過ないであろう。
 第九類土器(図65-15~19)
この類は、せまい沈線間に連続列点文を施した文様をもち、器肉もうすく、淡褐色ないしは褐色を呈する土器詳である。器形はおそらく浅鉢形または急須形をなすもので、小型であろう。15は波状口縁であるが、他は平縁である、17・19には口縁頂に刻み目がつけられている。この類は、安行系土器とは異質であるが、さりとて東北地方の大洞(おおぼら)系土器そのものでもない。この地方だけに分布がみられる文様かどうかも明らかでなく、現段階では大洞系の影響下にある土器として一応把えておくこととする。
以上、第一次調査によって得られた土器について、分類して説明をおこなってきたが、これらの類で景的に最も多いのは、第五類土器と第六類土器、次いで第八類土器である。この量的に多い時期は安行Ⅱ式から同Ⅲa式にかけての時期であり、第一次調査地点の遺跡の営成時期が、該期であることが推察されるのである。これは、第二次調査地点が安行ⅢC土器を主体としているのと対照的である。

写真24 遺跡が臨む支谷の谷頭部(昭和44年頃)

図60 第1地点出土の第1~第4類土器拓影図

図61 宮岡氷川神社前遺跡第1地点出土の第4類土器拓影図

図62 宮岡氷川神社前遺跡第1地点出土の第5類土器拓影図

図63 第1地点出土の第6・7類土器拓影図

図64 宮岡氷川神社前遺跡第1地点出土の第7類土器拓影図

写真25 宮岡氷川神社前遺跡竪穴遺構

図65 第1地点出土の第8類・第9類土器拓影図

  第二次調査地点出土の土器
 第一類土器(図66-1)
この類の土器は、図示したものの外に若干の細片があるだけである。器面には内外面ともに条痕が施されており、色調は褐色を呈している。胎土には繊維を多く含み、焼成は良い方であり、この種のものとしては堅質である。茅山上層式に属するものと考えてよいであろう。
 第二類土器(図66-2~10)
個々の間に新旧の差は認められるが、発見されたこの種の土器もごく少ないので、全体を加曽利E式土器としてとりまとめて記述する。
2・3は深鉢形土器の頸部に相当する破片と思われるもので、上半はへラみがきの無文となり、下半は地文に縄文が施され、その上に垂直に下がる隆起線と、同じく隆起線の波状に下る懸垂文が見られる。厚さ約一・五センチあり、厚手である。
4~8は地文に条線文を有するものである。二本の沈線による懸垂文の間が磨り消されているもの、並行する二条の沈線がつくる波状文がみられるもの、などが含まれる。又、9・10は、沈線内ないし隆起带の上に連続円形刺突文がみられるのが特徴である。胎土には、石英・長石、砂粒を含み、色調は赤褐色・黒褐色、および灰褐色を呈している。いずれも口縁部破片であるが、キャリパー形に近い形の深鉢になると思われるもので、口縁文様帯にみられる縄文は原体がLRである。
 第三類土器(図66-11)
この土器は、第一・二類土器と同様発見例の少ないもので、加曽利B式としてよいものである。連続する押圧が施されている細い隆起帯が口縁直下を一周し、器面には磨消縄文手法がみられる。胎土には石英を多く含み、色調は黒褐色を呈しているが、焼成は良く堅質である。縄文は原体をLRの撚糸によっている。
以上三類にまとめた土器は、この遺跡から主体的に出土するいわゆる安行式土器とは別のもので、たまたま発掘区に混在していた程度の状態で発見されたものである。
 第四頰土器(図66-12・13)
波状口縁を持つ精製の深鉢形土器で、帯縄文を有し、なおその縄文が撚糸RLを原体とするものをもってこの類とした。口縁はやや外反するのが普通である。つくり、文様構成、或いは口縁波頂部の瘤起等、全体的にみてやや型式的なくずれを感じさせるが、これらは一応安行ⅡないしⅢa式の範疇に入るものとしてとらえてよいであろう。色調は暗褐色、黒褐色等を呈し、焼成は良い。
 第五類土器(図66-14~21)
14及び15は、前類と同じく波状口縁を持つ精製の深鉢形土器であるが、施される縄文がLRにはっているところから類を別にした。又、これらの縄文をLRにしているものには、18・21の如く浅鉢及び台付浅鉢になると思われるものもある。深鉢の場合の波頂部の形態、瘤状突起等に第一類とほぼ同様の型式的くずれが認められる点を特に注意してみるべきであろう。なお、この種の土器としては往々にして三叉文の施されているものがあり、16はその一例である。焼成は良く、色調は概して茶褐色を呈している。他は深鉢形土器の胴部破片と思われる。19は、地文にLRの縄文を施し、二条の沈線の間に列点を施したものである。17は、原体の結び目を回転してえられた「S」字状文がみられる。色調は赤褐色、黒褐色、暗褐色を呈し、焼成は良い。以上要するに、晚期初頭における安行ⅡないしⅢa式(真福寺Ⅰ式)土器に比定し得るものといえよう。
 第六類土器(図66-22~24)
いわゆる紐線文系の粗製の深鉢形土器である。22にやや古い要素(安行Ⅰ式的)が認められるが、他はⅡないしⅢa式に属するものである。口縁には連続する指頭圧による紐線文がみられるものもあり、又これが胴最大径の部分にみられるものもある。器面には縦方向ないし、斜方向にハケ目が施されている。
 第七類土器(図67-1~11)
二条の並行する沈線によって囲まれた帯状の部分に、一列の列点文を配しているものをまとめてみた。これらは形態としては口縁がわずかに外反し、比較的上位にてややくびれる深鉢形土器と、同じく頸部を有し、丸底になる浅鉢形土器に大別されるが、前者の場合はその内に水平口縁になるものと、波状口縁になるものの二種がある。口縁を波状にするものの波の数は、およそ他の遺跡例等からしてもおそらく五単位になろうと推察されるが、実のところ本遺跡からは復原可能な土器の出土はなく、不詳である。又、後者の浅鉢の場合も水平口縁になるものの外、やはり波状口縁になるものの破片も含まれていることと思われるが、これも同じく、それを証する資料はなく、判然としない。更に、各破片の厚さ、断面の特徴から見た形態上の詳細についてみると、深鉢形土器の中にも2・7のように薄手で、しかも、内面の湾曲具合等から推して、高さ二〇センチ以下になろうと思われるやや小型のものと、3~6・8・10のように厚手でやや大型の深鉢になると思われるものがある。又、浅鉢においても同じようなことが言える。施されている沈線並びに列点文の特徴をあげると、沈線の引きを同じ方向に突いているもの、これとは直角の向きに突いているもの、斜めに突いているもの、円形に上から突いているもの等があり、それぞれ、型式的な特徴と結びついているように思われる。色調は淡褐色をしているものが多く、黄褐色・褐色・暗褐色になるものがこれに次いでいる。胎土中にはチャート粒と思われるものを比較的多く含み、器表面は滑沢がなく、ざらついているが、内面はへラ磨きによる滑沢のあるものがほとんどで、浅鉢の類は特にその点が顕著である。なお、文様構成の中で、三叉文、入組三叉文のあるものがあまりみつかっていない。
 第八頰土器(図67-12~25)
複数列の列点文を有する土器である。列は2~4が普通であり、殊に二列になるものが主体的である。刺突の施し方は、前類と同じく沈線に並行するもの、斜行するものがあるが、直角の向きに突かれているものは全くないのが特徴的である。又、この類には、ごく小さな刺突が多数疑似縄文的に配されているものがある。なお、器面に瘤起の貼付けられているものもあるが、その数は少ない。けだし、列点文の列数によって分類した七類と八類の土器は、各々破片による部分的な観察であり、便宜的なものであって、前類に示した土器のうちにも、 本類に含むべきものが混在している可能性があることを追記しておきたい。なお、本類の土器の胎土・色調・焼成等は七煩のそれと大差ない。器形の判然とする資料はないが、口縁の内傾するものがあり、他と趣を異にする。
 第九類土器(図68-1~25)
口縁部文様帯に太い沈線のみによる文様を有するものである。波状口縁と水平口縁になる深鉢形土器と、同じく口縁に二種ある浅鉢形土器が主であるが、いずれも水平口縁になるものが多く、波状口縁になるものの数は少ない。かつ、その波状口縁も、波が低くなっているのが特徴的である。沈線文は主として入組三叉文を主要な文様とし、その周囲を別の沈線が埋めている。胎土中に含まれる砂粒は一段と多くなり、粗面を呈する。全般的に厚手ではないが、湾曲の度合から考えられる器形は、やや大型になるものが多い。
 第一〇類土器(図69-1)
細沈線を羽状に配した文様のあるもので、本遺跡からの出土例はこの一片の外は若干の細片があるだけである。これは頸部の破片と思われるが、器肉は薄く、比較的小型の鉢形土器になると思われる。他と同じく、胎土には多くの砂粒が混じっており、したがって粗面をなし褐色を呈している。
 第十一類土器(図69-2~6)
無文の粗製土器である。口縁は、平縁でごくわずかに内傾する深鉢になる。2は口縁部破片であるが、口唇部が薄くとがっている。これに対し、3~6は折り返し口縁が見られる。どれも粗雑に作られており、器表面に輪積みのあとがみられる。色調は、黄褐色・褐色等を呈しているが 表面にススの付着するものもある 焼成は良い。
 第十ニ類土器(図69-7~8)
これは底部の破片であるが、以上のいずれの類に属するのか明らかにし得ないため類を別にした。一つは網代痕を持ち、一つは木葉痕があって興味深い。色調は淡褐色を呈し、焼成は良い。
 第十三類土器(図69-9~15)
大洞(おおぼら)糸の土器をもって一括した。もっとも、東北地方の土器そのものではなく、全て、他の安行式土器と同じ胎土をもって作られている土器であり、その文様も関東ナイズされているところに特色がある。文様の特徴から9は従来のⅢa式土器であり、雨滝式に重畳するものがある。なお、10・11・12・13は大洞C₂式に、他は、大洞C₂式的な要素を多分に含んでいる。色調は、黄褐色、茶褐色、褐色を呈しているが焼成はよい。

写真26 宮岡氷川神社前遺跡近景(昭和44年頃)

写真27 宮岡氷川神社前遺跡鉢形土器出土状態

写真28 大洞A式土器・石斧出土状態

図66 第2地点出土の第1類~第6類土器拓影図

図67 第2地点出土の第7類・第8類土器拓影図

図68 宮岡氷川神社前遺跡第2地点出土の第9類土器拓影図

図69 第2地点出土の第10~13類土器拓影図

図70 宮岡氷川神社前遺跡出土土器実測図

土製品(詳細はクリックしてご覧ください)
 土製耳飾
本遺跡の出土品のなかで最も注目されるのは、土製耳飾であろう。それは造形的にすぐれているばかりでなく、透し彫りに見せる精巧な細工は装飾美的効果を明らかに意識して制作されており、工芸品としての価値が高い。出土点数は、残欠まで含めて二四点で、それを実測したものが図71・72である。形態的には、全部いわゆる滑車形に属するものであるが、さらに分類して説明しておこう。
a  スタンプ形耳飾(図72-7)
この形は一点のみで胎土を臼形にかためて焼いたものであり、何ら工作はない。重さは一〇三グラムをはかるので、果して耳たぶにこんな重いものをはめこんで飾りとしたかどうか疑問である。ただ、周縁がややくびれ気味になっているところから、耳飾りの形態に近いということだけである。
b  有文臼形耳飾(図71-4・8)
4は直径二・〇センチあり、刻み目を周縁につけ、内側には女陰を形象化して彫っている。8は中心に孔を貫通させ、そのめぐりにひとまわりの沈線と八個の三叉文を配している。
C  輪形耳飾(図71-9~14・図72-1~6)
厳密にいえば本類が滑車形にもっともふさわしい形をしている。本類に属するものが一番多いが、完形品は一点もない。図71-14・図72-3とには、彫刻文が施されているが、他のものは無文である。肉部の形態から、有段のものと無段のものとがある。胎土は精選されており、焼成も良好で、明褐色を呈している。また、全体によく研磨されている。胎土、焼成、形態がみなよく似ているので、同一胎土から同時に製作されたかのような感じを受ける。大きさは、外径五・〇〜八・〇センチで、十一個の平均は七・〇五センチであり、他の平均三・三五センチにくらべ二倍以上も大きい。彩色はない。
d  透し彫りのある耳飾(図71-1~3・5~7・ 口絵)
大きさは三~四センチほどの中型のものである。全体の形態から言えば輪形を呈するが、輪内に複雑、奇怪な彫刻と細工を施しているのが、より特徴的である。透し彫りの手法は、周縁および輪内に半肉彫りにより三角形の印刻を行なったり、太い沈線をまわし込み、その彫り残した部分に刻み目や列点を施すというものである。刻み目を施す細工については、臼形の手法と同様である。これらの全部には丹を多量に塗っている。
個別に説明をすると、1・2は大きさこそ少し異なるが、全く同タイブである。周縁から輪内に四つの焰状の突起を出し、三角形の陰刻を施し、そして周縁や彫り残した部分に刻み目をつけている。耳飾の断面形は、上下に縁取りをして、中央部が全面的にくぼみ、そして輪内への突起は中ほどからやや牙状に出ている。周縁の相対する位置に四つの台形のたかまりを形づくっている。
3も大体1・2と同手法であるが、輪内彫刻は図解的に1・2を発展、加飾したものであることがわかる。
すなわち四つの突起を左右に二つずつ合体し、その両端に虹形のかけ橋をつなぎ、そして上下のかけ橋を中央のコムギ形の肉で連結している。
5も輪形であるが、輪内には、上から下へ、中央に孔をもった肉部でさしわたしをしている。このさしわたしの表面は太い沈線が刻まれている。色調は淡褐色を呈する。
6は、三叉状の腕木部を中にして、刻み目と沈線を施した輪部を形成している。軸部の中央には貫孔があり、その周囲に沈線を一周させ、それぞれの腕木部には点文と二条の沈線とが配されている。
7は輪内の装飾を欠損しているが、3と6とを折衷した文様装飾をもっていたものと推察される。
e  臼形耳飾(写真29-4)
この形態は一点である。大きさは外径、一・六センチ、高さ一・〇センチある中央孔をもった臼形をしているが、底面は平らであるので、表面の外周縁がつまみあがっている感じである。全体的に肉がうすく、できばえも拙劣である。
f  カフスボタン形耳飾(写真29-1・2)
表面から見るとド—ナツ型をしている。表面の輪部にわずかに高い瘤を四個もっている。側面から見るとカフスボタン型をしていて下方の直径が小さくなっている。
手捏(てぐす)ね土器(図72-9・10)
手捏ね土器は、縄文後、晩期の遺跡にもしばしば出土するが、本遺跡においても、小形のものが二点出土した。両品とも第一調査地点からの出土である。
9は、淡褐色を呈し、平底をなす捥形土器で、第二地点Aトレンチ第五区から出土した。口縁部を欠損するが、径五センチ、高さ四センチをこえないであろう。
10は、赤褐色を呈し、丸底の壺形土器で、第一地点Bトレンチから検出された。最大径三・五センチ、高さ三・一センチで、器肉は内湾し、ドングリのような形をしている。
両品とも施文・彩色はみとめられない。
 土偶(どぐう)(写真29ー8・9)
第二地点からの出土品で、8はGー1グリットから、9はAー4グリットからそれぞれ検出されたものである。
8は、腰から下の部分で、腰の部分には円文の点列がまわっている。
9は、肩から腕にかけての部分と考えられ入り組み状の沈線間に截痕を配文している。第八類土器の文様に属するものであろう。
護符(ごふ)様土版(図72-8)
本品は、第一地点Aトレンチ第三区から出土したもので、長さは七・〇センチ、幅は二・六センチ、厚さは七ミリを計る。淡褐色の隅丸の長方形をして、刻文のある面を凸にして反っている。両端には孔が穿たれているが、片端はちょうど孔のところで欠損している。表面には、何匹ものヒルが這っているかのように三叉状の沈線が入組んで刻まれている。裏面は無文で指圧痕を浅くとどめている。全体として出来ばえは幼稚で、反り方も一定していない。形もやや不恰好である。
本例の如き類品については、筆者はその出土例をあまり知らない。用途については、紐を通す孔が両端にあるところから垂飾品とも考えられないことはないが、反り方が額にあててみると、ぴったりと合うところから孔に紐を通して額につけ、頭のうしろで紐を結んで使っていた蓋然性がつよい。したがって、護符または信仰呪術品、もしくは認識標として供せられたものであろう。

図71 宮岡氷川神社前遺跡出土土製耳飾実測図

図72 土製品実測図1~7耳飾・8護符様土版・9~10手捏土器

石 器(詳細はクリックしてご覧ください)
本遺跡から発掘調査によって得られた石器は、全部で六二点を数える。これらをまとめたものが、表3である。
石器の種類別点数は、礫器一・打製石斧九・磨製石斧三・たたき石二・乳棒状石器Ⅰ・すり石五・石皿二・搔器一・石廠二一・尖頭器五・石錘二・石棒一・石剣二・砥石一・垂飾品二・その他四、である。これらは、礫器一が無土器時代ないしは縄文早期に属すると思われるほかは、すべて縄文時代後・晩期の石器であろう。
数量的に最も多いのは石鏃であって、尖頭器五点を加えると飛び道具が二六点を数え、全石器の四六%を占めている。このことは、生業が狩猟に相当ウェイトをおいていたことを提示するものとして把えてよいだろう。なお、ここで尖頭器については説明を加えておく必要がある。尖頭器とは名称が適切でないかもしれないが、用途としては槍先に塡装した飛び道具と考えるのが、いちばん自然であるように感じられるので、そういったまでのことである。とはいえ、本遺跡の尖頭器は(写真30-1~5)幅広で肉厚な形態を有し、見るからに「ずんぐり」としている。果して実用に供し得たかどうか疑わしいのもあるし、また製作途中の破損品と見られるようなのもある。これらの尖頭器の「ずんぐり」形の原因は、製作方法にあるようだ。その未製品(写真30-6~8)を詳細に調べてみると合点がいく。すなわち、上横二面にプラットホームをもつ石核から先ず横長のフレイクを剝ぐ。フレイクの片側には石核時のプラットホーム面が厚くなっており、つぎにここに打撃を加えてバルブを剝ぎ取り鋭利な側辺を形成させるという手法である。このような尖頭器の形態や製作技法は、本遺跡の特色であることに注目するとともに、今後他遺跡の尖頭器についてもじゅうぶん注意を要する問題である。
打製石斧の形態は、短冊形(図73-2・3・4・6)、揆形(同図ー7)、分銅(ぶんどう)形(同図ー8)であり、これらは小形と中形に分けられることができる。ここでいう小形とは、長さ八センチ以下のものと指すとすれば、2・4などがこれに該当する。そのほか打製石斧で特徴的なことといえば、揆形では基部寄りに着装のためのくびれをもたせていること、 分銅形では逆にこのくびれが浅くなっていることである。
打製石斧が第一地点からより多く発見されているのに対して、すり石は第二地点からの出土が圧倒的に多い。すり石の石材は、硬い石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)や花崗岩などから作られている。形態は、長楕円形、隅丸長方形を呈しており、側辺にも磨り面をもっているのが多い。図73の9には、表裏ともに穴が彫られている。これは堅い実をつぶす道具か発火棒のおさえ石かもしれない。すり石の五点は、石鏃、打斧についで第三位で、数量的に多いことも注目する必要があろう。図73の5は、すり石とたたき石を兼ねたすり石である。
図74-1の砥石は、玉類や磨製石斧を研磨したものであろう。同図ー5も正確にはわからないが、砥石に類するものであろう。同図ー6は、ぼろぼろ崩れやすい砂岩製で、周囲が削られ減っている。利器としてよりは信仰的な用途を考えた方がよいかもしれない。
石器の石材供給地は、大部分が荒川水系に求められる。利根川水系の石材は安山岩系統のものであり、他は、硬玉(こうぎょく)が越後または秩父、黒耀石は透明度が高いので信州産と思われる。圧倒的に多い荒川水系の石材でも、変成岩類は秩父地方から運ばれたのではないかと思われる。このように石材の供給地から、当遺跡居住者の交易、行動圏の一端がうかがえる。

表3 宮岡氷川神社前遺跡出土の石器一覧表

図73 宮岡氷川神社前遺跡出土石器実測図(1)1礫器 2~4・7・8打製石斧 5・9~12すり石

図74 石器実測図(2)1砥石 2石皿 3・7石斧 4たたき石 5・6・8不詳 9石棒

図75 石器実測図(3)1~21石鏃 22・23石錘 24~26磨製石斧 27石剣

図76 宮岡氷川神社前遺跡出土土垂飾品実測図

動物遺存体(詳細はクリックしてご覧ください)
この遺跡から検出された動物遺存体は、骨片と貝殻片の二種であり、合計六グラムほどである。これらは炭化物や焼土粒とともに発見された。
骨片は、長さ一・五センチ、幅〇・五センチが二片と骨粉状になったものである。種はシカGervus nipponcentralis KISHIDAであるが、部位は判別しかねる。
貝殼は一片で、ハマグリMeretrix lusori aの腹縁部である。
この項は、吉川國男氏他四名「宮岡永川神社前遺跡発掘調査報告書」『 北本市文化財調査報告書第一集』より一部再録。

写真29 宮岡氷川神社前遺跡出土土製品

写真30 宮岡氷川神社前遺跡出土遺物

丸底の土器(詳細はクリックしてご覧ください)
神宮家増築に先立ち、昭和六十一年六月に試掘を実施し、若干の遺物が出土した。
写真31は小形の丸底壺である。口縁部を欠失している。現存高は八・七センチ、最大径は胴下半にあり八・三五センチである。色調は赤褐色を基調としており、文様帯のあたりは磨耗して淡赤褐色を呈している。胎土に微細な金雲母を多量に含む他、石英粒を含んでいる。底部に至るまで胴部全体に単節縄文を施文したのち、頸部直下に沈線をめぐらし、一・二~一・五センチあけ二本目の沈線をめぐらし、さらに五~六ミリ下に三本目の沈線をめぐらしている。一本目と二本目の沈線の間に、羊歯(しだ)状文を入れている。羊歯(しだ)状文は六単位で、少し崩れている。二本目と三本目の沈線の間は無文である。縄文原体はLRで、片方の撚りが強く、一条おきに浅い施文痕となっており、所によって一条抜けている。東北地方が主分布域である大洞BーC式(縄文晚期)である。羊歯状文は崩れているが、胎土は在地性ではなく、搬入品である。

写真31 宮岡氷川神社前遺跡試堀出土遺物

吉田家所蔵資料(詳細はクリックしてご覧ください)
氷川神社の宮司職を務める吉田家が、所蔵している資料である。
草創期 図77・写真32は、チャート製の右舌尖頭器である。先端部と舌部を欠いている。現存長三・四六センチ、基部幅一・二二センチ、基部の厚さ〇・五五センチである。舌部を〇・五センチ、先端部を二センチの欠失と推定すると、完形時の全長は六センチ程であろう。両而を押圧剝離(おうあつはくり)により形状を作出している。剝離は非常に粗い。先端を上にして右側縁、上下を逆にして左側縁、そのまま裏がえして左側縁、上を逆にして右側縁を加工している。調整加工の方向は上から下へを基本としている。土器は発見されていないが伴っているはずである。
中期 (写真33) 1は勝坂式の突起である。キャリパー形の口縁に粘土を中空状に貼りつけて盛りあがらせ、下端は丸棒状にして橋状把手となっている。隆帯上には爪形文を施し、地には三叉文を入れている。

写真32 吉田家所蔵有舌尖頭器

図77 吉田家所蔵有舌尖頭器

後期(写真33) 3は称名寺式の突起である。円形の刺突文を施している。縁帯文風に続いていくのであろう。2は甕の口縁部片で細めの隆起帯により文様を施している。4は深鉢の口縁部片で、単節縄文LRを地文とし、沈線で蕨手文他を施している。5は甕の口縁部片で、低い隆起帯と沈線で文樣を施している。口縁の小突起は裏面に円形の沈線を施す他、口唇直下の裏側に沈線を一条めぐらしている。6は口縁が単純に開く深鉢の口縁部片で、口唇直下に細い隆起帯をめぐらし、キザミを入れ、ハの字状貼付文を施している。地文に細かい単節縄文を施し、沈線で半月状に囲み、周囲を磨消している。以上は堀之内I式である。7~9は加曽利BI式である。7は浅鉢片で、短い口唇部は直立し、以下底部に向って内傾していく。口唇部にキザミを施し、直下に沈線をめぐらしている。頸部以下に四本の沈線をめぐらし、上段と下段の沈線間にキザミを入れている。内面は口唇直下に円形刺突を深く施し、突带下に器面と同様の文様をめぐらしている。8は注口土器の突起、9は粗製土器の頸部片である。

写真33 吉田家所蔵資料(1)

写真34の12は、加曽利B式の注口土器の注口部片である。
後期末〜晚期(写真34) 1~2は同一個体である。扇状把手の付く深鉢で、突起、双指押瘤等を貼付している。削り出しにより帯縄文帯の隆起、その下部に三角形に細い隆帯を作出している。縄文はRLである。3もほぼ同様の土器であるが、平縁であろう。この三点は安行Ⅱ式である。4は安行Ⅲa式の浅鉢である。口縁下に細い沈線をめぐらし、三叉文を入れ、最後に細かい単節縄文LRを施している。5~9は紐線文系の粗製土器である。10は頸部直下の破片で、沈線をめぐらし、頸部には横位の沈線文、頸部直下には、連弧文を施している。安行Ⅲb〜ⅢC式である。11は深鉢の口縁部片で、鋭利に削った沈線を斜行して施文している。安行Ⅲc式である。

写真34 吉田家所蔵資料(2)


写真35 吉田家所蔵資料(3)

写真36 吉田家所蔵資料(4)

写真37 吉田家所蔵資料(5)

耳飾(写真37) 17~19・21・22は耳飾である。18の径三・四七ンチ。いずれも後期後半の耳飾である。
垂飾具(写真37) 20は、土製のリングで断面はほぼ丸てある。上から下へ貫通孔がある。時期は不詳である。
石鏃(写真37) 2~6は無柄、7~12は有柄である。石材は2・3・7が黒耀石、4・5は頁岩、他はチャー卜である。2は小さく逆刺を作り出しており、特異な形態である。
石核と剝片(写真37) 13・14は黒耀石の剝片と石核である。石核は幅一・二五センチ、長さ三・九センチである。不純物の入ったあまり良くない石質であるが、三面剝ぎ面がある。
小形磨製石斧(写真37-15)  基部を欠いている。現存長五・三センチ、最大幅一・八五センチ。最初の調整剝離痕が所々に残っている。
砥石(写真37-16) 現存長五・四八センチ、幅四・三七センチ、厚さ〇・ハセンチである。二次的火力を受け、赤味がかっており、一部黒色である。砂岩である。
打製石斧(写真35) 1~4は分銅形、5は短冊形である。2は両面加工、3・4は片面加工、5はエッジだけ調整加工を施している。通常の打製石斧は1~3の三点である。4は柄と刃が直交するように取りつけ、鍬として使用されたものである。刃先は磨耗しており、特に裏面は部分磨製のように滑らかである。5は周辺が丸くなっており、敲くようにして使用している。
石剣(写真35-7) 断面形が菱形を呈するように磨かれている。両端が欠損している。現存長一ニ・七三センチ、最大幅三・四五センチ、厚さ二・四四センチである。
不詳石器(写真35-6) 長さ一四・二五センチ、幅四・五六センチ、厚さ一・五三センチ。一部磨いている。
磨製石斧(写真35ー8・9写真36-1) 8・9の二点は小形の定角式磨製石斧である。8は刃先を損傷し、再加工している。現存長七・二四センチ、厚さ二センチである。9はほとんどを欠失し、基部のみ残存している。1は蛇紋岩製の大形品である。先端基部ともに欠失している。現存長一四センチ、最大幅七・二センチ、厚さ三・一四センチである。
独鈷石(どっこいし)(写真36-2) 欠損部の方が多く当初形態は不明であるが、側縁の抉り込みと、それに続く若干低くなった部分があり、独銘石であろう。最厚部で三・一三センチである。
磨石(写真36-3・4) 3は小形で中央に浅い凹みが両面にあり、凹石としても利用している。石材は多孔質安山岩である。4は卵形の磨石である。
凹石(写真36-5) 孔が三つ残っているがほとんどを欠失している。石材は赤褐色を呈した片岩(紅れん片岩?)である。
石皿(写真36-6・7)7の裏面は凹石として利用している。石材はともに多孔質安山岩か?。

写真38 吉田家所蔵資料土版

土版(図78・写真38) 糸巻形を呈する土版で、全長八・四センチ、最大幅六・一センチ、厚さ二・〇センチを測る。胎土は〇・五~一ミリ大の微砂粒を含み、色調は明褐色である。上部をM字状に突出させている点が特異で、ここに二孔を穿っており、頭部と解釈される。胸部中央にも三角形の突起を有し、両腕の基部にもそれぞれ一孔を穿っている。手足を大の字に伸ばしており、土偶(どぐう)としての要素を多分に残しているといえよう。時期は安行Ⅲcに比定される。


図78 吉田家所蔵資料土版


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