北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第1節 荒川沿岸の遺跡

諏訪山南遺跡 (大字石戸宿字堀ノ内)
遺跡は、三方が谷で囲まれ、北西に向けて突出した台地の基部近くで、南側の支谷を見下ろす台地上に位置している。台地の北側の谷は、南側の谷と同じ谷に合流する小支谷が、逆従に浸食して形成したもので、谷頭にあたる。遺跡直下の小支谷も逆従の谷で、一旦くびれるようにカーブしている部分で、台地幅が狭まったところである。標高は二五・八メートル、台地直下の沖積面との比高差は一〇メートル前後である。
遺跡の広がりは東西一九〇メートル、南北八〇メー卜ルであるが、遺物の散布は希薄である。北里メディカルセンターの建設に先立ち、昭和六十年五月二十七日〜七月三十一日に範囲確認の調査を実施した折、古墳の石室が見つかり、須恵器の長頸壺の完形品が出土し、本調査に期待が寄せられた。本調査は昭和六十三年九月一日〜十二月二十八日に実施した。

図126 諏訪山南遺跡位置図

図127 諏訪山南遺跡全測図

検出した遺構は古墳の石室一、地下式壙三(内一基は未掘)、竪穴状遺構一である。遺構を伴わない遺物としては、旧石器時代のナイフ形石器一、同フレーク等、縄文土器片、石鏃(せきぞく)である。未だ整理を終えていないので、一部を紹介する。
旧石器
図128はナイフ形石器。黒耀石(こくようせき)製。現存長二・四センチ、幅一・〇九センチ、厚さ〇・五四センチである。調整剝離を基部両側に入れている。左側縁は丁寧なりタッチであるが、右側縁は荒い。先端方向からの衝撃で切損している。

図128 ナイフ形石器実測図

一号古墳
石室が発見されたのみで、周堀も不明である。もちろん盛り土は早くに失っていた。
石室は横穴式石室(よこあなしきせきしつ)で、砂質凝灰岩(さしつぎょうかいがん)の切石積(きりいしづみ)である。主軸の方向はNー11°ーWである。奥壁部、羨道(せんどう)部、前庭(ぜんてい)部が破壊され、上部もまた破壊されていた。推定全長五・二メートル、奥壁近くの幅一・二六メートル、中間で一・四メートル、羡道部の積石のはじまる部分で〇・八五メートルである。
ローム層を五二~五五センチの深さで長楕円形に掘り込み、その上に切石を積みはじめている。根石の傾斜は七一・五度である。いわゆる後込(あとご)めには粘土を使用せず、暗黄褐色土を入れ、たたきしめている。2層と3層の間と3層と4層の間に砂質凝灰岩の小片の薄い層が間層として入っているのが注目される。
玄室(げんしつ)はわずかに胴が張っている。袖があったかどうかは不明である。玄室内は石室材と同じ凝灰岩のくず石と緑泥片岩(りょくでいへんがん)の破片をぎっしりと敷きつめている。この石の頭がかくれるぐらいが棺床面になるのであろう。
羨道は積石の南ヘ一メートルほどのび、前庭部へと移行する。羨道部にはうっすらと粘土を敷いている。前庭部は一号地下式壙や古墳時代以降の溝・ピットで破壊され、詳細は不明である。
出上遺物は、副葬品としての須恵器の長頸壺一点と鉄製釘片五九点である。長頸壺は最大口径七・七七センチ、高さ一九・七センチ、胴部径一三・九センチである。ロクロ成形による半球状の塊を二個合わせて胴部をつくり、ロクロ成形した長頸部を接合している。球状胴部の中央、二個合わせる前の埦底部に当たる部分をへラ削りしている。反対側は釉薬(ゆうやく)で観察できないが、同じ手法であろう。釉が口唇部、その他で剝がれた部分もあるが、完形品である。七世紀後半の作である。

図129 諏訪山南遺跡1号古墳出土位置図

図130 諏訪山南遺跡1号古墳実測図

写真76 諏訪山1号古墳石室

写真77 諏訪山南遺跡1号古墳出土長頸壺

図131 諏訪山南遺跡1号古墳出土長頸壺

図132 諏訪山南遺跡1号地下式壙実測図

一号地下式壙
入口の直径が約一一〇センチで、下方にいくに従い狭くなり、直径七〇センチ前後である。深さ二・三メー卜ルで竪穴部分の底になり、そこからさらに斜め下方に五九センチ下ると横穴部の底である。横穴部は幅が一・七六~一・九一メートル、奥行三・一メートルの長方形で、高さは一・四~一・五メートルである。床面積はおよそ五平方メートルである。横穴の主軸はNー38°ーEである。横穴の内部には流人土や天井部の一部崩落土があったが、ほとんど空洞であった。四方の壁には掘削した工具跡が明瞭に残っていた。工具の刃幅は約一三センチで、角が若干丸みを帯びていることからスキのようなものと推察する。
横穴部の床より中世陶器片五点、板碑片一〇点、ほんの少しの骨片を発見した。
二号地下式壙
入口の竪穴は、長径一・七六メートル、短径一・四メートルの楕円形で、深さは一メートルぐらいのところから長径一・〇四メートル、短径〇・ハ四メートルの長方形となり、深さ二・六四メートルで底となる。一号地下式壙と同様に七二センチの段差を経て空洞の横穴となる。横穴は最大幅三・六メートル、奥行一・四ニメートルの不整四角形で、高さはおよそ一・三メートルである。平面形はいわゆるT字形を呈している。横穴の主軸はNー55°ーEである。床面積はおよそ四・六五平方メートルである。掘削跡の幅は約一四センチで一号とほぼ同じである。
遺物は板碑片六点(内一点に金泥がある)及び貝の破片である。貝は腹足類のアカニシである。
竪穴状遺構
平面の基本形は長方形である。北西壁を主軸の方向と見立てるとNー50°ーEである。上面の規模は長径二・三一メートル、短径一・三七メートルである。南コーナーに浅い突出部がある。深さは八六センチで、底面はほぼ水平である。壁はオーバーハングになっており、上端部から見て約一〇〇度に開いている。北西壁から北東壁のほぼ中央までの壁直下に溝がめぐっている。西南部の一部が横穴となってのびている。幅九七センチ、奥行六四センチ、高さ三三センチである。
竪穴埋土中より大永三年(一五二二)銘、同五年(一五二五)銘の金泥入り板碑が出土した。

図133 諏訪山南遺跡2号地下式壙実測図

写真78 諏訪山南遺跡1号地下式壙奥壁

写真79 諏訪山南遺跡2号地下式壙南壁

写真80 諏訪山南遺跡竪穴状遺構

図134 諏訪山南遺跡竪穴状遺構実測図(1)

図135 諏訪山南遺跡竪穴状遺構実測図(2)

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